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秦の始皇帝の長城に登る
北京を初めて訪れた人は、必ず八達嶺の長城に足を運ぶに違いない。2200年前、初めて中國を統一した秦の始皇帝は、萬里の長城の建設に多くの金と労力をつぎ込んだ。あまりにも有名な話なので、長城と言えば、秦の始皇帝がすぐに連想される。だが、有名な八達嶺長城は、始皇帝の時代から1600年も後の明代に築かれたものだ。専門家の最新の研究によると、秦の始皇帝が建造した長城のうち、もっともよく原形をとどめいているのは、陰山山脈に殘っているものだという。

 內蒙古自治區のウラド前旗(県)は始皇帝の長城が殘っている所で、わたしが6年間の下郷生活を送った思い出の地でもある。ウラ山の西端にあるウラド前旗の旗政府所在地西山嘴鎮に著いた翌日の朝早く、わたしは120キロ離れた小佘太郷にある長城を目指して出発した。真っすぐ北に向かい、バヤンチャガンという山を越え、干しあがった川底や土ぼこりの立つでこぼこ道を通りぬけて、晝ころに小佘太郷に著く。午後の山登りに備え、村の食堂でマトン料理をどんぶり二杯平らげて體力を付けてから、また先へ進んだ。郷役場から3キロほどで狼山に連なる査石太山のふもとに著く。ここには漢代の太初3年(102年)に建てられた光祿砦の遺跡が殘っている。鶏鹿砦よりも面積はずっと広いが、遺物は少なく、昔の面影をとどめているという點では、鶏鹿砦に及ばない。

 光祿砦を過ぎ、谷間に踏み込んで1キロほど、秦代の長城が目の前の山にくねくねと姿を現した。秦の始皇帝は、蒙恬將軍に軍隊と長城建設のために集められた労務者50萬人を率いさせて、戦國時代(前475?前221年)の秦、趙、燕の三國がてんでに築いた長城を一本につなげるという大工事をやってのけた。しかし、立派な長城を建造して國を外敵から守ろうとした秦は、始皇帝の死後4年もたたないうちに、圧政に苦しむ農民の一揆のために滅び去った。

 秦の始皇帝は神仙の方術を信じ、徐福や蘆生といった方士を國外にまで派遣して、不老不死の秘薬を求めさせた。始皇帝32年(前215年)、秦に戻った蘆生は始皇帝に「秦を滅ぼすものは「胡」です」と申し上げた。始皇帝は「胡」を蠻族という意味に取り違えて匈奴を討たせ、長城を築いた。始皇帝は「胡」が皇位を継いだ18番目の息子――胡亥のことを指すとは思いもよらなかったに違いない。秦王朝は、蘆生の言った通り二代目、胡亥の時代に、民衆の反亂によって滅んだ。

 長城の傍らにある標高1700メートルの山の頂に石造ののろし臺の跡が殘っている。ここに立って四方を見渡すと、長城、山頂ののろし臺、ふもとの光祿砦が相まって巧みな防衛陣地になっているのが分かる。

 ウラドに戻った翌日、ウラ山のふもとにある刁人溝を訪れた。30年前の文化大革命の最中、わたしは北京から內蒙古のこの谷にやってきて、採石作業に攜わった。刁人溝に著いてから500メートルも行くと、昔住んでいた小屋が見えてきた。石造りの三棟の平屋は、みんなわたしたちがこの手で建てたものだ。最初の小屋は廃屋になっていたが、二番目、三番目に建てたものは、まだ採石場の作業員やその家族の住まいとして使われていた。昔のままの風景ではあるが、顔見知りはもう一人もいなかった。

 

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