米『National Journal』は、「米國の後、中國の世紀に」という文章を掲載した。
「中國の世紀」へと続く道は「米國の世紀」への道と似ているだろう。経済ニーズによる曲がりくねった上昇から、他國の過ちや判斷ミスがこのプロセスを助長している。この道のスタートはすでに現れている。19世紀末から20世紀初頭、世界は米國に対する調整を行っていたが、米國が主導権を握ることになるとは意識していなかった。それと同様に、21世紀初頭の世界は中國に対する文化、政府、政治上の調整を始めた。
世界が中國に開かれるとき、中國も世界に開かれる。こういっためぐり合わせは米國の「裏庭」とされる南米を含む世界各地で発生している。米國は南米を數百年にわたり主導し、南米は當然米國のものであるという考えもある。中國人は南米の奧深くまで浸透し、それは米國人が通常意識する以上のものである。中國は臺頭し、彼らは徐々に持久力を高めている。
「中國の世紀」は米國にとって終わりを迎えたことを意味するのか?これは米國人の中で広がっている懸念だが、中國の臺頭が米國の加速化を刺激できると言える。例えば、いつか米國が自身がもう世界一でなく、中國人がトップの座にいると悟った時、米國は長期にわたって拒まれてきた改革を進めざるを得ないだろう。これらは米國が直面する情勢をどう調整するかとも関連する。
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