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敦煌 中原と西域の文化が融合した蕓術(shù)の寶庫
発信時(shí)間: 2009-08-31 | チャイナネット
中心塔柱窟。第254窟(北魏)(寫真?張偉文)

中原文化と西域文化が集まり、出會(huì)い、融合してきた、シルクロードの要衝、敦煌。4世紀(jì)から石窟の開削が行われた莫高窟は、千年以上の歴史の積み重ねによって、豊かで多様な石窟蕓術(shù)、中國獨(dú)特な様式を持つ仏教蕓術(shù)を生みだした。悠久な歴史を持ち、巨大な規(guī)模の莫高窟は、中國さらには世界の仏教蕓術(shù)の至寶である。


莫高窟の雪景色

 敦煌は、中國甘粛省の河西回廊の最西端に位置し、祁連山脈から流れてきた左氏置水(今の黨河)が氾濫してできた、沖積のオアシスであり、周りはゴビ砂漠と砂丘に囲まれている。敦煌は地理上、重要な位置にあった。東は中原地區(qū)につながり、西は新疆と隣接し、漢代からずっと中原から西域へ行く交通の要衝であり、有名なシルクロードにある重要な町である。

敦煌鳴沙山

 敦煌は、玉門関、陽関という2つの重要な関所に守られ、東西を往來する旅商人が必ず通る、東西貿(mào)易の中心地、中継點(diǎn)であった。漢代になって、中原と西域間の交通ルートが開通して以來、中原の文化は絶えず敦煌に伝わり、そこに深く根を下した。西域と隣接している敦煌は、発祥地をインドに持つ仏教文化を早くから受け入れ、西?中央アジアの文化も、インド仏教文化とともに、絶えず敦煌まで伝わってきた。中原文化と西域文化はここに集まり、出會(huì)い、融合してきた。

敦煌鳴沙山の月牙泉

 前漢から十六國時(shí)代まで、歴代王朝により敦煌の造営と開削が行われ、長い間ここは、比較的安定していた。そのため中原文化は、敦煌と河西回廊で保存され続けてきた。また、多くの有名な儒學(xué)者がここに誕生し、館を設(shè)立し講義を行い、本を著し説を立てた。約2世紀(jì)前後に、敦煌は涼州文化の中で初めて頭角を現(xiàn)し、封建経済、封建文化がとても発達(dá)する地域となった。そして、西へ法を求めに行く僧や、東へ法を伝えに來る僧も敦煌を通過し、この地での仏教の発展を促した。敦煌莫高窟もその時(shí)運(yùn)に応じて現(xiàn)れてきた。

絶えず造営された莫高窟

第85窟で壁畫を修復(fù)している敦煌研究院の技術(shù)員たち

 唐代の碑文には、莫高窟の造営年代についてこういう記載がある。晉の建元2年(366年)東方の禪僧、楽 は、西へ行く途中ここを通った時(shí)、向こうに暗い赤色の三危山が夕日に照り映え、さんさんと輝き、まるで仏が光を放っているような光景を目にした。楽ソンはその山の麓に足を止め、莫高窟に初めての石窟を開削した。

シルクロードを歩いている駱駝のシルエット

 その後、法良禪師も東から來てここを通った時(shí)、樂ソンが開削した石窟のそばにさらに一窟を造った。その後、北魏末期ごろには、沙州(敦煌の古稱)の刺史(昔の地方官の一種)である東陽王?元栄と、北周の建平公?于義も石窟の修築を提唱しつづけたため、この宕泉渓谷の岸壁に、大小あわせて多くの石窟が、絶えず造られてきた。唐の則天武后時(shí)代に建造された石窟だけで、千を超えている。そのため、千仏洞とも呼ばれたのである。

敦煌莫高窟を見學(xué)に來る観光客

 莫高窟は、敦煌の東南25キロ離れた鳴沙山の東麓に位置し、前方は宕泉に臨み、東は祁連山の支脈である三危山に面している。4世紀(jì)から14世紀(jì)まで、石窟の開削や塑像の制作は止まらず、南北方向で約1680メートルの石窟群が形成された?,F(xiàn)在、歴代にわたり造営された石窟は合わせて735あり、高さ15~30メートルの斷崖に、上下、1~4段に重なりあい、南北2つの區(qū)に分布している。

 南區(qū)は、仏に禮拝する場で、492の石窟があり、彩色の塑像が2000體以上、壁畫は約4萬5000平方メートル、木造のひさしが5基、保存されている。北區(qū)には243の石窟があり、僧侶たちが修行、居住し、埋葬された場所である。中には、修行や生活のためのオンドル、オンドルに通じているかまど、煙突、龕(仏像を納める廚子)、燭臺(tái)などがあり、塑像や壁畫はない。

塑像と壁畫が織りなす仏教蕓術(shù)

涅槃像。第158窟(中唐)

 莫高窟は、もろい礫巖の斷崖に開削されているので、細(xì)かく彫ることができず、泥塑像と壁畫が主な蕓術(shù)様式となっている。彩色された塑像は、木枠を骨とし、それを葦で縛り、草を混ぜた泥をその骨組みにつけ、膠を練った白土を塗る。そして細(xì)かい造型と彩色は、人物の肌や表情、服裝の質(zhì)感を表現(xiàn)している。壁畫の制作は、窟中の壁に草を混ぜた泥を2、3層塗り、絵の構(gòu)図を決め、下図を描き、色を施し、最後の仕上げをして完成する。莫高窟の石窟蕓術(shù)は、建築や彩色の塑像、壁畫が一體となった総合蕓術(shù)である。

 石窟の形と構(gòu)造は、內(nèi)容と機(jī)能によって異なっている。彩色の塑像は、石窟蕓術(shù)の中心である。崇拝の主な偶像は、窟中の壁や中心塔柱窟の中心柱にある龕、或いは仏壇(須彌壇)の目立つところに安置され、周りの壁畫の內(nèi)容と関係し、統(tǒng)一されている。壁畫は、石窟蕓術(shù)の重要な構(gòu)成部分である。その多くは、複雑な場面や豊かな內(nèi)容を表現(xiàn)し、龕や壁、天井に、色とりどりに描かれ、中心となる塑像と相互に映え、完璧な石窟蕓術(shù)を構(gòu)成している。

殿堂窟。第57窟(初唐)(寫真?張偉文)

 莫高窟は、北涼、北魏、西魏、北周、隋、唐、五代、宋、西夏、元など十時(shí)代を経て、伝統(tǒng)的な蕓術(shù)のもとに、外來の蕓術(shù)を吸収、融合させ、千年以上の歴史の積み重ねによって、豊かで多様な石窟蕓術(shù)、中國獨(dú)特な様式をもつ仏教蕓術(shù)を形成した。

 莫高窟は、その悠久な歴史や巨大な規(guī)模、奧深い內(nèi)包、精巧な蕓術(shù)で、國內(nèi)外で名が知られている。また、完全に保存されているため、中國ないし世界の仏教蕓術(shù)の至寶となっており、中國と世界の文化史上、重要な地位を占めている。

北朝時(shí)代の石窟

殿堂窟。第159窟(中唐)

 莫高窟の建築蕓術(shù)は、十時(shí)代にわたる多種多様な建築様式が完全に保存されている。時(shí)代の変遷や仏教の発展につれ、莫高窟の石窟は、主に禪窟、中心塔柱窟、殿堂窟、仏壇窟、涅槃窟、大像窟など、6種の形と構(gòu)造の変化を経てきた。そこは塑像や壁畫を設(shè)置する神殿であり、僧侶たちが宗教活動(dòng)を行う場所でもあった。

 莫高窟の早期の石窟蕓術(shù)は北朝時(shí)代にさかのぼり、北涼、北魏、西魏、北周の4時(shí)代が含まれる。この時(shí)期の石窟は、主に禪窟、中心塔柱窟、殿堂窟の3種であり、いずれもインドや西域の仏教の深い影響を受けており、中國本土の蕓術(shù)の特徴も現(xiàn)れている。

第285窟の內(nèi)景(西魏)

 禪窟は、禪僧の修行の場である。この石窟は、インドの毘訶羅窟から発展してきたもので、中心となる室は長方形や方形で、真正面の壁には龕を設(shè)け、塑像を安置し、そこで修行者が禮拝する。両側(cè)の壁にそれぞれ2つ或いは4つの小さな室を設(shè)け、修行者がその中で座禪し修行する。第268窟と第285窟はこの種の石窟である。

中心塔柱窟。第428窟(北周)

 中心塔柱窟は、中心柱窟や塔廟窟とも呼ばれる。この時(shí)期に流行した主要な洞窟の形である。インドの支提窟からきている。中心となる室の形は長方形であり、室の中央部から少し後に、天井と地面をつなぐ四角の柱を造り、柱の四面に龕を掘って塑像を安置し、修行者が柱を回り仏像に禮拝する。室の前半部の天井は、漢代の建築様式を模した、切妻形を表している。第254窟と第428窟はその種である。

 殿堂窟は、修行者が仏に禮拝する場である。この窟の形は、中國の伝統(tǒng)的な殿堂建築の影響を受けており、中心となる室は方形で、真正面の壁に龕を開き、塑像を安置し、或いは龕を設(shè)けず、塑像だけを安置する形をとっている。あとの三面の壁には壁畫が描かれている。天井は、斗を伏せた形の伏斗形や切妻形である。

時(shí)代とともに移り変わる石窟の形

南大仏。第130窟(盛唐)

 隋?唐時(shí)代になると、石窟蕓術(shù)にも、多様で、民族的、世俗的な傾向が現(xiàn)れはじめる。殿堂窟はそれが最も多く見られ、衰えることなく絶えず発展してきた。

 唐の後期には、新たに仏壇窟が現(xiàn)れる。中心となる室の中央に方形の仏壇を設(shè)け、仏壇の後に伏斗形の天井に繋がる石屏風(fēng)を造り、前に階段を造る。彩色の塑像群は仏壇の上に高く聳え立ち、信者たちは仏壇の右方向へ回り、仏像に禮拝する。第196窟はこの種の石窟である。

第407窟(隋)の天井。中心に3匹のウサギが描かれている

 涅槃窟は、涅槃像があることで有名である。中心となる室は、橫に長い長方形で、真正面の壁ぞいに両側(cè)の壁と繋がっている仏の床が設(shè)けられ、その上に涅槃像が橫たわっている。唐の中期の第158窟は涅槃窟である。

 大像窟は、窟中にある大きな彌勒仏の座像で名を知られている。莫高窟にある初唐の第96窟や、盛唐の第130窟はこの種である。大像窟は天井が高く、中心となる室の平面図は方形で、真正面には、石を原型にして、その上に泥を施して造られた大仏があり、大仏の後を信者が回り歩けるように、馬蹄形の通路が掘られている。採光のために、前壁の上部、中ほどに大きな窓が開けられており、石窟の外は、木造のひさしが幾重にも造られている。

 この時(shí)期、中心塔柱窟は衰退しはじめる。修行の簡略化や仏教の世俗化によって、中心塔柱の機(jī)能はだんだん弱くなり、殿堂窟の仏龕の形に近づいてくる。

仏壇窟。第55窟(宋)

 五代、宋、西夏、元代の石窟の形は、唐代後期の建築様式を引き継ぎ、中心となる室の真正面に龕を開き、中央に方形の仏壇を設(shè)ける殿堂窟が流行した。五代、宋代の殿堂窟の規(guī)模は、前の時(shí)代をはるかに超え、西夏、元代の殿堂窟には、多層の円形仏壇が現(xiàn)れた。第465窟はその種である。

 崖の表面に殘っている遺跡と文字によれば、隋?唐代各石窟の前室の外には木造のひさしが造られ、さらに各窟は木造の桟道で繋がっており、非常に壯大な景観だったと記載されている。

「人民中國」より 2009年8月31日

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