2003年8月2日、上海で行われたアニメ展覧會で、日本のアニメ?キャラクターに扮してゲームをする三人の若い女性。
蘭州の児童公園に登場した日本の特撮ヒーロー?ウルトラマンシリーズのキャラクター。
2004年11月、手塚治蟲氏の遺作を編集したアニメ映畫『孫悟空』のDVDの出版セレモニーが、世界に先駆け北京で執り行われた。
手塚治蟲氏の『孫悟空』は、中國の古典小説『西遊記』に取材した作品である。しかし、中國人がよく知る數千年を経た猿の妖精の孫悟空とは違い、手塚氏の丸顔の悟空は「鉄腕アトム」によく似ており、手には金屬質の如意棒を持っていた。
1980年代、日本のアニメはその豊かな想像力と、美しい畫面で人々をひきつけ、中國でも多くのファンを獲得していた。「日本アニメの父」と呼ばれる手塚治蟲氏が制作した『鉄腕アトム』は中國の青少年を夢中にさせ、中國の視聴者に広く知られる初の外國アニメ?キャラクターとなった。
手塚治蟲氏のアニメ制作は、中國と深い関わりを持っている。1943年、小學生であった手塚氏は、中國アニメの開祖、萬籟鳴兄弟が監督した中國初のアニメ映畫『鉄扇公主』を観て、「手に如意棒を持ち、斤斗雲で10萬8千里を飛ぶ」孫悟空にすっかり魅了された。その後、アニメ制作の道を歩むことになる手塚氏は、1952年に漫畫雑誌に『ぼくの孫悟空』を連載している。
1988年、手塚氏は訪中し、すでに古希を迎えていた萬籟鳴氏を訪ねた。日本に戻った手塚氏は、彼の最後の作品となる『私の孫悟空』の草案を完成させたが、その翌年に亡くなってしまう。アトム誕生50周年に當る2003年、手塚プロダクションは手塚治蟲氏の思いが込められた作品『私の孫悟空』を発表し、2004年11月、萬籟鳴氏の命日の前夜に『孫悟空』と名を改めて、中國に「里帰り」させた。
日本の手塚プロダクションの松谷孝征氏は、「萬籟鳴先生は手塚先生が最も愛し、尊敬した方です。手塚先生はディズニーの影響を受けていると多くの人が認識していますが、実際は中國アニメ、とりわけ萬先生の影響を受けており、その時期はディズニーよりも早く、影響も深い」と、指摘した。更に、松谷氏は、「日本で『私の孫悟空』が上映されたのは、日本経済が回復して間もない時期でした。我々は孫悟空の勇敢さ、善良さ、意志の強さが方向を見失った日本の人びとに希望と元気を與えてくれることを願っています。『孫悟空』は申(サル)年に中國に里帰りしました。同様に、この作品が中國のみなさんによりよい未來をもたらしてくれることを願っています」と語っている。
「チャイナネット」2007年3月