?「俺はルフイ。海賊王になる男だ。」
??????????????????????????????????????????????? ――『ワンピース』
「俺」という勢(shì)いで叫び、大きい聲で自分の目標(biāo)が「海賊王」だと宣言するのは、これから旅に出、様々な困難を経験し、人に認(rèn)められるよう命がけて頑張る少年だ。
「自分の力で立って、走って、前に進(jìn)む」姿が、私の目の中の日本人だ。確立した目標(biāo)に向かって一途に頑張り、できるだけ完璧にやる。そして、だれにも負(fù)けないように自分に厳しく要求する。そのような頑張り屋でまじめなところは、日本人の特徴の一つではないかと思う。右に出る人が存在すれば、自分は失敗だと信じる日本人が、何故いつも「にっぽんいち」と叫ぶのか、少し分かってきたような気がする。
その一途なやり方は日本人の精神力に大きく寄與したと思う。その精神力は漫畫(huà)『BLEACH』(久保帯人)の登場(chǎng)人物、志波海燕が言うように、「刃の指す道に、猛き困難に、我が魂に、ただ、まっすぐ」とも言える。周りの條件や情勢(shì)がどんなに悪くても、個(gè)人として自分の力を最大に発揮するのが大切だ。個(gè)人の力を最大限に出せば絶対できる、と日本人は信じているようだ。そのような信念は日本の自然環(huán)境からの影響もあろうかと思うが、その信念に支えられ、例えば弱者が強(qiáng)者に勝ち、小柄なものが大きいものを負(fù)かすなど、このような現(xiàn)象がしばしば見(jiàn)られる。生活の面にして考えれば、弱者に同情を寄せることにあらわしれいるのではないかと思う。
日本は國(guó)土が狹いためか、日本人はいつも向こうを見(jiàn)ずに何かを追求し、何事に対しても最高に要求する。おそらく、日本人が一定の範(fàn)囲で一位にならなければ決して優(yōu)れたとは言えないと考えているのではないかと私は思う。その分野の第一を最後の目標(biāo)として設(shè)定する。それがすべてだ。この目的に達(dá)するまでの過(guò)程なんかは何の意味もない。努力したから十分だという中國(guó)人の理念とは異なり、日本人にとって、結(jié)果がなければすべてが無(wú)意味なようだ。それが、日本人が生命の最後の華やかさを重んじる原因だ、と私は理解している。
「願(yuàn)いが正しいなら、そのための行為も正しい。」
それを言い換えれば、「願(yuàn)いごと」とはその最後の目標(biāo)で、「そのための行為」とは過(guò)程だ。それは過(guò)程を軽視する日本社會(huì)で流行っている理念のようだ。どうせ成功する前に注目してくれないから、どんな方法を使ってもかまわない。今やっているのはすべてその目標(biāo)のためだから、その目標(biāo)を達(dá)成すればきっと許されるから、悪いことをしてもその大義さえあれば、悪くないという論理で罪を美化したりもする。漫畫(huà)の人気役は大體そういう悪役だから。
一方、私は「にっぽんいち」を叫んで頑張っている日本人の姿に感心した。四楓院夜一(漫畫(huà)『BLEACH』の登場(chǎng)人物)の「瞬にして錬にして素にして燁にして聖にして豪にして鎮(zhèn)にして焔に」する様子が常に私を勵(lì)ました。
?(筆者は寧波大學(xué)日本語(yǔ)學(xué)部三年生の呉蘭さん)
「チャイナネット」2007年7月20日