クリシェンコ氏はウクライナの人で、すぐれた共産黨員で、空軍少佐であった。1939年5月、クリシェンコ氏はソ連人民の委託を受けて、長距離爆撃機の志願隊を率いて中國に來た。
蘆溝橋事変(1937年7月7日)以後、日本侵略者は空の優位に頼り、中國の抗日前線と後方に対して無差別爆撃を行い、制空権を握った。この危険と困難にみちた時に、ソ連人民は友情の手を差し伸べ、1938年の初めから1939年の夏まで、何回かに分けてそのすぐれた空軍の志願隊を派遣し、飛行機を操縦して中國に來て、中國人民の抗日戦爭に參加した。
1939年の夏には、ソ連の教官の訓練を受けた中國のパイロットは1045人、航法技師は81人、射撃手兼無線技師は198人、航空技術者は8354人に達した。共同の訓練と戦闘の中で、中ソ両國のパイロットは真摯な、固い友情で結ばれた。
10月14日、この偉大な國際主義戦士、中國人民の忠実な友人である――クリシェンコ氏は、その貴い命を中國人民の抗日と民族解放の事業のために捧げた。
「チャイナネット」資料