広田弘毅(1878-1948)
元日本國首相。1906年に東京帝國大學法學部を卒業後、長期間外務省で勤務。情報部次長、歐米局局長、駐オランダ日本國公使(1927-1930)、駐ソ連日本國大使(1930-1932)を歴任。1933年9月から1936年2月まで斎藤、岡田內閣の外務大臣を務めた。1935年10月に中國と東南アジア併呑を企む「広田三原則」を発表した。中國を侵略する行動を積極的に企畫した。1936年の「2?26」事件以降、3月に軍部のバックアップの下で組閣し、外務大臣を兼任、軍部大臣の現役將官制を復活させ、南北並行の『國策基準』を制定し、さらにドイツと『共産主義防止に関する獨日協定』に調印した。1937年1月にその內閣が崩壊した後、同年6月に再度近衛內閣の外務大臣に就任、強硬な対中侵略方針を取った。のちに何回も重臣會議に出席し、多くの重要な政策決定に參加した。戦後にA級戦犯として逮捕され、1948年に極東國際軍事法廷で絞首刑に処せられた。
「チャイナネット」資料