1939年9月に第2次世界大戦が歐州で勃発した後、中國は抗戦を長引かせて日本陸軍の主力を終始けん制した。これによって日本は「北進」政策が破られ、南進が阻止されて、ドイツ軍との共同戦略に必要な軍事行動がとれず、ドイツが企てた日本との東西ソ連挾撃と、獨日両軍の中東合流が達成することはなかった。
中國による長期間の抗戦は日本の「北進」政策を打ち破り、ソ連極東地域の安全を保障した。日本の関東軍は1938年7月と1939年の5月から8月にかけて、中國領內で張鼓峰事件、ノモンハン事件を相次いで引き起こし、ソ連軍と武力衝突した。これによって獨、伊、日の三國軍事同盟を進展させ、ソ連の內情を探ろうとしたが、結果として中國の抗戦によって日本軍主力はけん制され、これにより日本軍は兵力が及ばずことごとく失敗した。日本はなぜ武力衝突を拡大せず、最終的には外交で解決させたのか?當時の関東軍副參謀長であった石原莞爾は、「今回の張鼓峰事件では、ソ連は日本を脅威に感じており、日本が中國に対して兵を向け???日本が中國と和睦すれば、日本はソ連の脅威となるだろう」(ワシレフスキー『卒生的事業』、122ページ)としている。ソ連が1938年から1939年の間、東方戦線の脅威から離れることができた重要な要因は、中國による日本陸軍主力に対する抗戦とけん制であった。
中國の抗日戦爭がソ連の後顧の憂いを取り去り、ドイツと日本によるソ連挾撃の陰謀を破綻させた。ドイツによるソ連侵攻の前夜、ヒトラーは日本からの訪問団団長であった山下奉文に會見した際、「早期に日本へ戻り、日本が満州からシベリアへ進軍することを希望する」と述べた。日本の松岡外相は、ドイツと協力してソ連を東西から挾み撃ちにすることを強力に主張した。しかし、軍部は関東軍増強のため5個師団を振り向ける計畫に反対した。日本の杉山元?參謀総長は「現在日本が中國に展開する兵力は大変大きく、北進して対ソ開戦は事実上不可能だ」(服部卓四郎『大東亜戦爭全史』第1冊、商務印書館、1984年版、153ページ)と述べている。日本軍の大本営は最終的にどうすることもできず、「帝國政府は中國事変の解決に努力を続け???獨ソ戦爭へは暫くは介入しない」(H.Feis『珍珠灣への道』、商務印書館、1983年版、228ページ)ことを決定した。獨軍兵士がモスクワ市內に迫った時、リッベントロップは再度日本に向けて「日獨両國は迅速に共同軍事行動を起し、東西からソ連を挾み撃ちにして、シベリア鉄道上で握手しよう」と提案している。ヒトラーは厳しい冬が來る前に、日本と共同でソ連侵略と意図していた。しかし、このとき日本は侵華戦爭に兵力を集中しているさなかであった。1941年12月初めには、日本陸軍51師団のうち35師団、陸軍総兵力の69%が侵華戦爭へ投入されていた。中國の抗日戦爭で日本陸軍主力は消耗し、北進による侵ソ戦爭ができなくなった。當時の日本軍大本営統帥部は「獨ソ戦爭がどうなっても、昭和26(1941)年度內は北方解決の計畫は破棄しない」(服部卓四郎『大東亜戦爭全史』第1冊、商務印書館、1984年版、162ページ)と決定した。これでソ連は極東地域の兵力を西方の対獨戦に集中していく。モスクワが戦闘狀態になっていた間、ソ連は極東から歩兵15師団、騎兵3師団と戦車、航空部隊を移動させ、西方戦線の対獨戦力を強化した。中國の長引く抗戦は日本を拘束し、ドイツが企んだ日本とのソ連挾撃の陰謀は破綻した。これについてソ連のジューコフ元帥は、「我々が最も苦しんでいた時期に日本はソ連へ侵攻しなかったが、中國は血の海となっていた。客観的事実をいくらかでも尊重する人はこの爭いようのない明らかな事実を考えずにはいられないだろう」(ジューコフ『中國での使命』、新華通訊社、1980年版、38ページ)と述べている。
中國の抗戦が日本の南進を滯らせ、連合國軍の太平洋戦線における反抗へ向けた時間が稼がれた。日本はソ連侵攻を斷念し、南進による「大東亜共栄圏」建設も陸軍主力が中國戦線での停滯によって遅れた。ドイツは1940年の春から夏にかけて西ヨーロッパへ侵攻。フランスが降伏してイギリス軍は歐州大陸から撤退、ヒトラーは西歐の覇権を握った。日本は本來イギリス、フランスがドイツの襲撃を受けて東方を顧みることができない間、アメリカはまだ直接獨、伊、日に參戦していない狀況に乗じて南下し、太平洋地域に進出。英、仏、蘭、ポルトガルの東アジア、東南アジア、太平洋地域における権益を奪取した。ドイツは日本の南進を促し、東方から英、仏などの勢力を攻撃することを求め、戦略上では相互連攜していた。しかし、この時の中國戦線では大規模な戦爭が繰り広げられており、日本軍主力は中國に留められていた。これに対して、日本からドイツへ派遣された特使の寺內壽一は、「日中戦爭が終わらず、南進ができない」と解説している。1940年には、日本陸軍49師団のうち38師団、陸軍総兵力の78%が侵華戦爭に投入されていた。
中國の抗日戦爭は日本陸軍主力を中國戦線の深みにはめ、日獨の中東合流計畫は泡と消えた。日本海軍は真珠灣を奇襲攻撃し、イギリスの戦艦「プリンス?オブ?ウェールズ」、「レパルス」2隻を撃沈。西太平洋とインド洋における制海権を握った後、5個師団を投入してオーストラリア、セイロン(現在のスリランカ)を奪取し、ヒトラーとインド洋で合流するという、身の程知らずな計畫を定めた。この時、ドイツも日本のインド洋進出を促していた。1942年3月23日、リッベントロップは駐獨日本大使の大島と樞軸國の戦略問題について討論した時、日本がセイロンとマダガスカルなどを占領し、ドイツ軍と共同で中東とコーカサスへ進軍するよう求めた。しかし、中國の抗日戦爭は日増しに激しくなり、日本陸軍主力は中國戦線に留められたままであった。1942年春、ルーズベルトは息子に対して、喜びながらこう言った。「もし中國がなければ、もし中國が壊滅させられれば、どれだけの日本兵が転戦できると思う?彼らは直ちにオーストラリア、インドへと進軍できる。これらの地區を難なく攻撃でき、一直線に中東へ進撃し???ドイツと一緒になって、大規模な突撃をして近東で合流、ロシアは完全に隔離され、エジプトも分斷されてしまい、地中海を通過する全ての交通が遮斷されてしまう。」(『ルーズベルト見聞秘録』、新群出版社、1949年版、49ページ)
日本軍において中國戦線での死傷者は最も多く、また戦爭期間も最長であり、代償も最大であった。抗日戦爭の勝利は、中華民族にとって衰退から復興への重要な転機である。
1937年の「七七事変」後、中國戦線では絶えず約100萬人の日本陸軍がけん制していた。日本の防衛庁戦史研究所の資料では、1937年時點で日本陸軍には24師団あり、侵華戦爭へ投入されたのはそのうち21師団、陸軍総兵力の88%以上で、さらに空軍力の50%、海軍力の40%が侵華戦爭に向けられた。1938年には、日本陸軍34師団のうち陸軍総兵力の94%を占める32師団が侵華戦爭に投入された。1939年には陸軍に41師団ある中で83%を占める34師団が、1941年に太平洋戦爭が勃発した時點では、陸軍51師団のうち34師団と44の獨立旅団、混成旅団が侵華戦爭へ投入され、陸軍総兵力の80%を占めた一方、南太平洋戦線に投入された陸軍は10師団だけで、中國へ投入された兵力の20%にも満たない。
中國は終始日本のファシズムに反撃する主戦場だった。1945年までに100萬人を超える兵力を抱えていた日本陸軍最大の中國派遣軍は、中國との長年の戦闘で消耗して最後の全面反撃で太平洋戦線や日本の本土決戦を支援することができなくなり、大陸で決戦する能力もなく、最後には中國で武器を捨てて無條件降伏するしかなかった。米英連合軍は日本の中國派遣軍に対する作戦に直接參加しなかったが、中國は10~20師団以上の兵力を2度にわたりビルマへ派遣し、インド?ビルマ戦線の日本の南方軍と戦い、ビルマ南方の防衛とビルマ北方、●西(雲南省西方)反撃戦の主力を擔當し、ビルマ人民の民族解放と國家獨立に重要な貢獻を果たした。1945年8月、日本軍が中國戦線で投降した兵力は128萬人余りで、この數字は東南アジア、太平洋の各島々の日本軍の合計を上回り、その數は國外の日本軍全體の50%以上に及ぶ(ソ連に投降した日本軍の數は含まない)。
中國の抗日戦爭は世界反ファシズム戦爭の中で最も長期間にわたった。1931年の「九.一八事変」から14年間も長引き、その期間はソ連、米國における反ファシズム戦爭の3.5倍、イギリスにおける反ファシズム戦爭の2.5倍になる。中國戦線で死傷した日本軍は155萬人余りで、日本軍における第2次世界大戦死傷者の75%以上を占める。これと同時に中國人民も多くの犠牲者を出し、中國軍民の死傷者は3587萬9千人余り、そのうち軍人の死傷者は413萬人余り、民間人の死傷者は2249萬9千人余りであり、日本軍に強制連行された労働者は800萬人以上、香港同胞10萬余人、臺灣同胞115萬余人が日本軍によって死亡、負傷した。直接的経済損失は1千億米ドル、間接的経済損失は5千億米ドル以上である。
中國の抗日戦爭の勝利は、中華民族にとって衰退から復興への重要な転機となった。抗日戦爭の勝利は中國近代からの列強による領土割譲、賠償、國家主権の譲渡といった屈辱の歴史を徹底的に改めた。甲午戦爭以來失われてきた土地、臺灣、澎湖列島などが再び祖國へと戻った。帝國主義によって中國人民の頭上に100年もの間のさばっていた一連の不平等條約が解消され、中國は世界の反ファシズム戦爭4大大國の一つとして、國連安全保障理事會の常任理事國5カ國の一つとなり、持つべき國際的地位を獲得した。中國の抗日戦爭の勝利は第2次世界大戦後の世界情勢に重大な変化をもたらした。それは中國革命の発展、アジアしいては世界の平和に重大な影響を及ぼしている。
●はさんずいに「真」
「人民網日本語版」 2005年8月22日