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?笹川杯」優(yōu)秀賞作品:日本を"感知"する3つの方法 |
発信時(shí)間: 2009-05-19 | チャイナネット |
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日本を理解する三番目の方法は、生活の中で目にしない日はない日本の電器や自動(dòng)車など、そしてメディアを通じて見る日本の右翼勢(shì)力の一挙一動(dòng)を通じてである。この3つのルートから私が得た日本の印象はというと、次のようなものである。日本の國(guó)花である桜は美しく、日本人は美を愛する民族であるということ。日本の製品は精致であり、日本人はよく學(xué)び向上心のある民族であるということ。日本人は繊細(xì)であり、國(guó)民全體の資質(zhì)が比較的高い民族であるということである。私は日本文學(xué)が好きだが、日本の政治の右翼傾化はいただけない。戦爭(zhēng)の歴史は私達(dá)にとってひとつの傷痕であり、日本の右翼はそれをいちいち痛撃してくる。
中國(guó)文化と類縁関係にある日本は、私の心の中では複雑な存在である。
私の村にも日本の侵略者が殘していった孤児がいて、私の従弟の妻の祖母もそうだった。そして、まさにこうした関係から、従弟は日本へ行ったのだった。彼が途切れ途切れによこす返信から得られる情報(bào)はというと、日本とは、中國(guó)國(guó)內(nèi)にいて完全に想像し切れるものでは決してないということである。鑑真和尚が日本に渡ったり阿倍仲麻呂が遣唐使になったりして結(jié)んだ情誼は、現(xiàn)代の日本でも今なお続いているということである。
従弟は、こんな話をしてくれたこともある。彼がボランティアである日本の老人を看護(hù)に行くと、去り際にその老人は彼の手を引いて忍び泣きをした。その老人は若い頃に海軍におり、自ら中國(guó)人を殺したことがあるのに、今こうして中國(guó)人が面倒を見てくれるとは、と深く謝罪したのだそうだ。この話は私をとても感動(dòng)させるものだった。
しかし、従弟によると、日本の若者とつき合っていて軍國(guó)主義による侵略の歴史という真相が日本の若者にはよくわかっていないようだという。日本の教科書では、あるものは歴史を歪曲しており、あるものはそのあたりの歴史に觸れていない。
最初に従弟が日本のあれこれを好きだと言った時(shí)、私は「日本に行ったら、數(shù)日でもう売國(guó)奴かい?」などと冗談を言ったものだが、彼が日本に行って6年にもなり、過(guò)ごした時(shí)間も短くはないが、彼はずっとこのように言うのだ。もしかしたら、私が心に描いている「日本」の印象を修正すべきなのかもしれない、とそこで気づいた。従來(lái)の「日本のモノはよいが、ヒトは憎むべき存在だ」というのを「日本はいい、親しむべきだ」に変えるべきかもしれないと。
2ヶ月前、私の甥も日本に行った。行く前は、彼も一種の反感と日本に觸れてみたいという思いを抱いており、日本に行ったらどんな災(zāi)難に遭うことかと心のうちでは心配していた。程なく電話をくれた彼は、日本での暮らしは物質(zhì)的にも恵まれているし、會(huì)社の日本人同僚もよくしてくれると話していた。従弟は東京で、甥は大阪で、2人の親戚が2人とも、日本に行った後に自分の思い描いていた"日本観"を修正したのだ。國(guó)內(nèi)にいる私にももちろん影響を與えた。日本とは、私たちが想像しきれるものではないのだ。気持ちや見方を切り換えて、より理解し、より交流せねばならない。
行動(dòng)は不便だが、私も生きているうちに日本へ行く機(jī)會(huì)があったらと望んでいる。従弟や甥の言う「良さ」を體験してみたい。私は今年で38歳になるが、半身不隨になってから三度しか家を出たことがない。最初は1995年の大洪水で異郷に避難した時(shí)、二度目は治療のため都會(huì)に行った時(shí)、そして三度目は最近のことで、私の作品集『大魚に乗りたがる子供』の出版座談會(huì)のため瀋陽(yáng)へ行った時(shí)である。私はさながら大魚に乗りたがる子供のように、理想に描く大魚に乗って日本へ行き、自らの目で見て體感してみたい。
また、より多くの日本の若者が中國(guó)を見に來(lái)て、彼らも、その心に描いている"中國(guó)観"を修正してくれるといいなとも思う。 ?中國(guó)國(guó)際放送局 日本語(yǔ)部?より2009年5月19日 |
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