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漢字を介したことばの交流(1)
発信時間: 2010-01-15 | チャイナネット

新しい文化がことばを変える

日本語はこれまでに三回大きく変わった。一回目は平安時代。それまでの漢字から萬葉仮名を経て、女手といわれる平仮名がつくりだされる。二回目は鎌倉?室町時代である。大陸に蒙古による元が成立し、宋から亡命した文化人によって宋の新しい文化とともに新しい言語がもたらされる。三回目は明治維新前後。鎖國政策から開港、明治維新へと激動する中で、西洋の新しい文化と技術(shù)の習(xí)得に四苦八苦する。

明治維新は、今からおよそ140年前の出來事である。古代から明治維新までなににつけても中國大陸の文化と制度を?qū)Wび、移入し続けた日本が初めて西洋に目を向ける。

當(dāng)時「西洋」ということばには獨特なひびきがあり、ヨーロッパやアメリカをさす地理上の區(qū)分を意味するだけではなく、われわれの學(xué)ぶべき文明の栄えている地域、もしくは優(yōu)れた異質(zhì)の文化圏として、憧憬の念や羨望感を伴って盛んに使われたという。『學(xué)問のすすめ』や『西洋事情』などの著書を発行した、慶応義塾の創(chuàng)設(shè)者?福沢諭吉によって「西洋」ということばが日本で大いに流行した。福沢だけではなく西洋を訪れたことのある人々はこぞって、西洋の先進文化と技術(shù)の輸入を急いだ。ところが見たことも聞いたこともない新しいものを、どのようにあらわすかが大きな課題になる。物はまだしも新しい概念を伝えるのは至難の技である。

松本市の舊開智學(xué)校。明治政府の學(xué)校令が出されてから建造された。 「文明開化」には形も重要であった

斎藤毅の『明治のことば』の冒頭に合衆(zhòng)國の初代駐日公使のタウンゼント?ハリスの『日本滯在記』の日記の一部が紹介されている。

「私は現(xiàn)在日本の人人に経済學(xué)の初歩を教え、西洋における商業(yè)規(guī)則の運用に関する知識の教授に従っていると言ってもよい。これは想像以上の苦労がともなう。未だ新しくて、適當(dāng)な言葉さえないような事柄について彼らに概念を與えるだけではなく、それを聞いた通訳がそのオランダ語を知っていない始末なのだから。これがため、極めて簡単な概念を知らせるだけでも、往往にして數(shù)時間を要することがある。絶望して投げださないようにするには絶大な忍耐を必要とする。しかし私は、私の発する一言一句、私が伝えることに成功した新しい概念のすべてが、直ちに閣老會議に伝達されることを承知している」

つまり新しい概念は、すぐさま國政に反映され、國の法律や政治にまで影響を與えた。日本はまだ若く、二、三十代の人間が國の中樞にいて新しい文明と制度の移入に日夜勵んでいた。

私は「文化大革命」が終って間もなく中國に來たが、思い起せばそのころの中國はまさに世界の新しいものが一挙に押し寄せた感があり、見るもの聞くことに誰もが興味津津であった。1980年代から90年代にかけて、中國も若返り政策で國の中樞に30代前後の人々が活躍し、若者が世界に飛びたった。明治時代の日本の若者も似たような情況下にあったのであろう。

日本の國語を英語にせよ

當(dāng)時、森有禮という人物がいた。日本の初代文部大臣である。文部大臣になったのは、38歳のときである。司馬遼太郎は『この國のかたち』の中で、森有禮に関して「(薩摩藩の)藩命によって18歳でロンドンに留學(xué)したため、日本的教養(yǎng)も少なく、幕末における志士活動の経験もなく、革命の果実だけを食う幸運を得、いわば藩費でできあがった質(zhì)のいい坊やという一面をもっていた。かれは明治3年(1870年)から3年間、少弁務(wù)使として駐米したとき、おそらく歐化しがたい日本に絶望したのであろう。日本はだめだという理由を日本語にもとめた。この時期、醫(yī)學(xué)や理化學(xué)用語の一部以外は日本語訳(漢訳)されておらず、西洋の諸概念さえとらえる能力を日本語はもっていなかったから、森の絶望もむりからぬことであった。森は、ついに、日本は日本語を捨て、英語を國語とすべきだと思いつめるまでになった」と述べている。

福沢諭吉。1862年パリにて撮影 (東京大學(xué)史料編纂書蔵)

初代文部大臣?森有禮。一時は日本語に絶望して、英語を國語にしようとした

このような考えを持つ者は少なくなく、ほかにも前島密や、神田孝平、ローマ字論者の外山正一などがいた。

だがしかし、日本は何とか英語が國語にならずにすんだ。

明治の指導(dǎo)者たちが、西洋の衝撃にまともに対面したとき、多少の曲折はあったにしても、最終的には、日本語による高等教育に落ち著いた。今日の日本人が學(xué)術(shù)の全領(lǐng)域で日本語でいちおうは思索し、研究し、教育することができるのは當(dāng)時の日本人が、新しいことばをつくりだすという苦労の多い作業(yè)を重ねながら開拓し構(gòu)築したお陰である。

?「人民中國インターネット版」 2010年1月15日

 

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