今日の橫田旅館と舊日軍出張所ーー中日甲午戦爭(zhēng)の戦跡を訪ねる(寫(xiě)真集)
山東省において、青島市にドイツ風(fēng)の「老房子(ラオファンズ?古い洋館)」が數(shù)多く殘されていることは、ほとんどの住民が知っている。だが、省內(nèi)の他の地域で赤い瓦が緑の木々の間から顔をのぞかせるヨーロッパ風(fēng)の光景が見(jiàn)られることは、意外と知られていない。濰坊市坊子の舊市街地にはドイツ式建築群が今でもほぼ完全な形で保存されている。かつて、この8平方キロメートルに広がる地域にはヨーロッパ型のコミュニティが形成されていた。どことなく寂しげな坊子の舊市街地には、靜けさに包まれながらも見(jiàn)る者を魅了する異國(guó)情緒が漂っている。
これらのドイツ式建築物は歴史ある膠済線坊子駅周辺に集中している。同駅は小規(guī)模ではあるが膠済線の重要な経由地となっていた。駅舎は典型的なドイツ式建築物として1902年に建造されたが、今なお完全な形で保存されており、切符売り場(chǎng)やプラットフォームの事務(wù)室は現(xiàn)在でも使用されているという。
膠済線沿い両側(cè)の地域にはドイツ人が殘した「老房子」が數(shù)多く見(jiàn)られる。地元の人によると、駅周辺の8平方キロメートル以?xún)?nèi)の地域には、合わせて103のドイツ式建築物と63の日本式建築物が殘されている。駅舎、領(lǐng)事館、學(xué)校、病院、官邸、民家、および宗教施設(shè)が含まれていることから、社會(huì)環(huán)境の整ったヨーロッパ型コミュニティが形成されていた様子がうかがえる。
一方、日本式建築物は、1914年にドイツ軍が敗れ日本の帝國(guó)主義勢(shì)力が坊子を占領(lǐng)した後、次々に建てられた。今なお坊子には日本人が建てた銀行、商店、民家などの建築物が60カ所殘されている。このうち、慰安所として使われた「老房子」は、日本軍がアジアの女性を慰安婦にした事実を確実に語(yǔ)り継いでいる。
「中國(guó)網(wǎng)日本語(yǔ)版(チャイナネット)」 2010年7月1日