日本は世界中の誰もが知る攜帯大國である。日本の攜帯は高品質低価格、機能も充実していて完成度が高い。しかも、どこかの攜帯キャリアと契約さえすれば、無料で攜帯が手に入るのだ。3G攜帯など、技術が発展していくに連れ、攜帯の付屬機能もまさしく日進月歩、留まるところを知らない。攜帯の高い普及率と充実した多機能性こそが、日本の攜帯文化をここまで成長させてきた要因だと言っても過言ではない。
40歳を過ぎた鈴木さんは東京の市役所中堅職員である。彼にとって攜帯は、日常生活に不可欠なものの一つだ。友達や仕事関係での同僚との連絡をする以外に、鈴木さんにとって攜帯は、家族との重要な交流手段にもなっている。
東京から遠く離れた郊外に、鈴木さんの家は有る。會社が終わると、必ずと言っていいほど、同僚と飲みに行くので、帰るのはいつも夜遅くになってからだ。加えて、朝も早いので、家族と顔を合わせる機會も自ずと少なくなる。しかし、鈴木さんと奧さんは、毎日メールでやり取りをして、お互いを気遣うことを忘れない。結婚20年の鈴木さんにとって、面と向かっては恥ずかしくて言いにくいような事でも、直接顔の見えないメールでなら素直に伝えることが出來るようである。彼は良く、若者が使うような流行の絵文字などを使って、奧さんに愛のメールを送っているのだそうだ。
攜帯は鈴木さんと家族を繋ぐ、大切なコミュニケーションツールである。顔と顔を合わせての會話よりも、攜帯メールでやり取りした「會話」のほうが多い事もあると鈴木さんは言う。
電波新聞社を経てフリーライターとなった曽崎重之さんは、自身が執筆した『ケイタイ文化論』の中でこのように述べている。攜帯がこんなにも速いスピードで人々の生活に溶け込んだのは、人のコミュニケーションに対する多様な願望を上手く満たしてくれるからである。
人間は寂しがりやで孤獨が怖いから、出來るだけ多くの人たちと交流を持ち、繋がっていたいと思う一方で、人間嫌いで人と接するのが面倒だと思う部分も持っている。でも攜帯があれば、誰かがいつも傍にいなくても、自分が必要だと思うときだけ、いつでも誰かと電話ができ、メールもできる。必ずしも直接顔を合わせる必要はない。
組織化された現代社會で生きる人は、誰もが、組織や社會の束縛から解放され、孤獨を味わいたいという願望を持っている。しかし、それと同時に、必要なときには誰かに傍に居て欲しいという思いもある。攜帯はこの2つを同時に満たすのにはぴったりの道具である。孤獨になりたい気持ちは常に心のどこかにあるが、都合のよいときは、仲間と一緒に居たい。攜帯の普及はまさに、こんな現代人の心の矛盾を、反映しているのではないのだろうかと曽崎さんは言う。
「中國網日本語版(チャイナネット)」 2010年8月19日