文=コラムニスト?陳言
中國北方の豊かになりつつある村。その入り口に立つ鳥居形の門には村の名前が書かれている。日本にはこうした伝統はない。
筆者は數年前、福島県の雙葉町を取材。入り口はまだだったが、遠くから看板が見えた。橫書きで「原発の郷に発展を 幸福と繁栄を未來に」。平凡な小さな町は、原発があることで誇りを感じるようになった。
東京電力は1967年から雙葉町と大熊町に原発を建設し、この2つの町はずっと日本の原発事業で最大の「拠點」だった。75年には、2つの町に接する富岡町と雙葉町にも東電第2原発が建設された。太平洋側沿いに、約10基の原子爐をわずか10數年で建設。海上から見わたすと、正方形の建屋が橫1文字に並び、建築物自身であれ、背後にそびえる送電塔であれ、粛然としていて尊敬の念が起こる。數千萬の首都圏住民への日常の電気供給はこの原子爐に依存している。
だが、3月11日に発生した地震と原発事故で、この町の様子は大きく変わった。雙葉町に再び入ると、自衛隊や消防隊の車両を除けば、乗用車はほとんど見かけない。住民の姿もまったくない。昔日の喧騒と誇りは1カ月足らずの間に雲散霧消してしまった。原発半徑30キロ圏內の人はすべて避難させられ、しかもいつ戻れるのか、はっきり答えられる町職員もいない。
技術が絶対的に強大で、かつ経済が非常に安定した國に、突如として事故により社會的恐怖がもたらされ、さらに「核難民」が出現した。これは日本に対して抱くいかなる人の想像をも超えるものだ。日本が経験したすべては、わたしたちが嘆くに余りあり、また少なからぬ啓示を與えてくれた。
相馬市は廃墟に
津波に見舞われた相馬市
原発の北部に位置する相馬市は、人口7萬。同市の一部は避難すべき20キロ圏內、一部は「屋內退避」に指定された20-30キロの範囲、30キロ圏外のところもある。
「寂しい、実に寂しい」。市內で衣料品を営んでいた店主は、がらんとした通りを眺めながらつぶやいた。
5萬人がすでにこの町を離れ、殘る2萬人も死と同じようなやるせなさ、寂しさを耐え忍んでいた。ガソリンを満載したタンクローリーは、市の境界地點まで運転すると、それより中には進まなかった。放射能の危険があるからだ。市では大型貨物車運転免許を持つ職員や市民を探し出し、境界の外で車を引き継いでスタンドに運んだ。