日本が全面降伏し、中國軍がベトナムへ北緯16度以北の日本軍の投降を受け入れに行くとの情報が入った際、彼らは「中國での大虐殺は、必ず中國軍の報復を受ける」と考え、ベトナム北部の飛行機や大砲、部隊及び物資を前もって北緯16度以南に移動させ、これによりイギリスの投降受け入れ側の「同情」や「恩恵」を得ようとしたが、そう上手くはいかなかった。
當時、投降受け入れのためベトナム入りした第一方面軍參謀長だった馬瑛氏によれば、「ベトナムでの受け入れは、日本軍國主義者の想像とは真逆のものだった。第一方面軍はベトナム入り後、陸軍本部の電令により、規定に従って粛々と手続きを行うだけで、報復や慘殺等は一切なかった。一方、ベトナム北緯16度以南の地區では、イギリス軍がまず日本軍の収容所から解放されたフランス軍に裝備させ、日本軍受け入れ作業に協力するよう許可を出した。フランス軍は1945年3月に日本軍から武器を取り上げられベトナムを追い出されていたので、その恨みを晴らすため日本軍の慘殺や虐待を行った。そのため、中國側に受け入れられた日本軍がそれを有り難く感じる一方で、北緯16度以南の日本軍は名狀しがたい悔しさを味わうことになった。」(馬瑛『第一方面軍入越接受日軍投降紀実』、王楚英、陳遠湘等『受降內幕』、中國文史出版社2010年版、第195頁)敗戦日本軍の「小人の心を以て君子を量る(自分の卑しい心を標準として、君子もそのようであろうと推しはかる)」やり方は、結局のところ、事態を悪化させ、自らをも辱めることとなった。
戦後の日本人捕虜や移民の帰還においても、中國の対応は手厚いものだった。捕虜も移民も、布団以外に30キロの荷物の攜帯を許可され、「軍人」は1人當たり現金500元、移民は1000元の持ち出しを許可されていた。「この待遇は他國からの帰還者と比べても相當手厚いものだったと言える。」1951年1月16日、岡村寧次は何応欽氏訪日の歓迎會の席でこのように述べた。「海外に派遣された日本軍民500萬名のうち、中國にいた200萬名は1年という短い期間の中でみなほとんど無事に、更には私物や布団まで持って帰國できたのは誰のおかげだろうとよく考えます。その一方で、南太平洋各國からの帰還狀況や、現在もシベリヤ……に殘されている數十萬の同胞のことを思うと、我々日本國民は當時の中國の指導者、特に何將軍のご対応には深く感謝しています。」(岡村寧次『何応欽將軍感謝會致詞』、何応欽『八年抗戦與臺灣光復』、文海出版社1980年版、第176~177頁)投降後の日本人と移民に対する中國人の寛大さと善意に、疑いの余地は全くない。
ならば、これを河村氏のロジックに當てはめると、中國人の善意はつまり、日本が侵略戦爭など行っていないことを意味するというのだろうか。「河村ロジック」派の日本人も、「南京大虐殺」を否定する日本人も少なくない。1986年5月27日、日本の文部省で高校の歴史の教科書『新編日本史』が審査を通過した。この教科書では日本軍國主義の醜い罪狀が故意に粉飾され、南京大虐殺を「現在調査中」とし、その意図するところは誰の目にも明らかである。(「日本政府史実を改ざん、「南京大虐殺」罪狀を粉飾」、『中華雑誌』第276期1986年7月、第25頁)
しかし、全ての日本人がみな河村氏と同様に恩知らずで口からでまかせを言うわけではない。當時の中國人の手厚い対応と善意を心に刻み、感謝の心を忘れない日本人も少なからず存在するのだ。「河村ロジック」には市場も未來も有り得ない。
「無報復」は中國人の善意と人徳の現れであり、日本人はその有り難さと感謝の気持ちを忘れるべきでないところである。國交正常化40周年を迎えた今、河村派の「無報復」を「無悪行」の証拠とするような考え方は、全くの荒唐無稽としか言いようがない。
「中國網日本語版(チャイナネット)」2012年2月25日