王:先生のお爺様は経済學者ですね。お父様も経済學ですか?
河田:父親は北海道大學の理學部で気象學でした。1945年2月に盲腸で亡くなっています。
王:先生の世代は教科書はなかったりしませんでした?
河田:中國語の教科書はありましたよ。大阪外國語大學で有名な、のちにどちらも學長になられた金子二郎先生、伊地智善継先生が作られた教科書がありました。「bo po mo fo」(ピン音)から、我(私)、我的(私の)、我的孩子(私の子供)、我的孩子是(私の子供は)などから始まる、今から見ても、とても論理的に作られた良い教科書でした。
王:それから、その後の先生の専攻は?
河田:最初は中國語學でした。僕たちの年代、中國哲學や中國文學そして東洋史をやる學生は、大學で古典語のいわゆる漢文から入りました。だから、漢文は読めるけれども、あまり現代中國語(白話)をしゃべるのは得意ではなかった。私は逆で、現代中國語から學び、大學院で文言文いわゆる漢文を學びました。でも、1981年に文部省(現文部科學省)の在外研究員としてアメリカのイエール大學に1年間留學して、その時に中國人の余英時先生の授業にでて、初めて中國語がわかるようになりました。30代で中國語がだいぶわかるようになった、そういう感じです。去年中國に行って、ホテルに泊まった時に歯ブラシがなかった。それで、歯ブラシという言葉を、僕はどういうのかが思い出せなかった。だから、僕が知っている中國語は教室で使うものだけです。だから、退職したら、1年間か半年間くらい北京か臺北に住んで、中國語をもう少し勉強したいです。