今年は中日國交正常化45周年だ。歴史を振り返ると、両國の友好関係は得難いものだと痛感する。これには中日両國の古い世代の政治家による積極的な努力、それから中日両國の民間の識者による力強い支持があった。そのため中日友好は両國間で広く期待されており、人民大學で起きた次の出來事はそれを最もよく説明していると言えよう。
毎年春、人民大學のキャンパス內(nèi)の桜が満開になると、筆者は欠かさず観賞に訪れる。それから1980年代に教えたことのある日本人學生、末次茂樹氏を思い出す。人民大學に39本の桜を寄贈したのは、彼だった。この桜には、感動的な逸話がある。
日本による中國侵略期間、末次節(jié)雄という名の日本人が、中國東北地區(qū)の鉄道部門で勤務していた。彼は日本軍が中國の一般人を殺害するおぞましい罪を目撃し、自分の子供を?qū)怼I國民の交流の架け橋にしようと密かに決心した。彼の息子、末次茂樹氏が1952年に誕生した。茂樹少年は父の言いつけを胸に刻んだ。末次氏は早稲田大學経済學部で學習中、中國と中國人への理解を深めるため、中國語の2年間選択した。末次氏は1980年代前半に中國人民大學で留學し、筆者が擔當していた「間違い表現(xiàn)分析」を聴講した。彼は內(nèi)向きの性格だったが、授業(yè)中にはすべての機會を利用し積極的に質(zhì)問?発言したので、中國語がみるみるうちに伸びていった。彼は1年後、優(yōu)秀な成績を収め、帰國した。その後さらに北京に派遣され、日本航空北京事務所の代表者に就任し、願い通り中日両國の交流の真の「架け橋」になった。
働き盛りの末次氏は、全身全霊で仕事に勵んだ。非常に痛ましく惜しいことに、末次氏は1991年、39歳で不幸にも重病にかかり、英気盛んな時に早世した。末次氏は死の間際、父の節(jié)雄氏に自分の願いを口にした。「もう両國民の交流のため貢獻できなくなったが、中國で39本の桜を購入し、中國人民大學のキャンパス內(nèi)に植えて欲しい。39本は私が39歳までしか生きられなかったが、桜の木と毎年満開になる花は、両國民の永遠の友好という私の願いを示す」
これは當時、人民大學留學生事務所の職員が、筆者に教えてくれたことだ。筆者は學校側(cè)と節(jié)雄氏の面會、さらに植樹式に出席するよう連絡を受けた。
筆者はすぐに帰宅し、末次氏が當時聴講していた「間違い表現(xiàn)分析」の、卒業(yè)試験の答案を探した。成績は、98點だった。學校側(cè)と節(jié)雄氏の面會で、私はこの答案を両手で手渡した。節(jié)雄氏も両手で厳かに受け取り、「これは家寶だ」としみじみと語った。