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szmolu.com |22. 05. 2023 |
文化交流の「渡し守」として半世紀(jì) 日中文化交流協(xié)會専務(wù)理事?中野暁氏
李一凡=文 日中文化交流協(xié)會=寫真提供
日中友好7団體の一つとして1956年に東京で創(chuàng)立された日本中國文化交流協(xié)會(HP:www.nicchubunka1956.jp)は67年の間、中日國交正常化と両國民間の友好交流を促進(jìn)するために積極的な役割を果たしてきた。専務(wù)理事の中野暁氏(75)は73年から同協(xié)會に所屬し、この50年間で日本の文化人とともに250回以上訪中した。
中國外文局は2022年に「蘭花賞」の設(shè)立を発起し、世界の國際文化交流事業(yè)に身を投じ、中國國內(nèi)外の文化交流と文明の相互學(xué)習(xí)の促進(jìn)、グローバル文明対話と協(xié)力に力を注いだ外國人または機(jī)関を表彰している。中野氏は外國人審査員として招待され、4月下旬に北京で行われた最終審査會に參加した。その期間中に本誌は中野氏を単獨(dú)取材し、中日文化交流に取り組んだ50年の経験やコロナ後の中日民間交流について話を伺った。
日中文化交流協(xié)會の中野暁専務(wù)理事(寫真?顧思騏)
「3年6カ月ぶりの訪中でした。今回、私自身も経験しましたが、現(xiàn)在はお互いの國を訪問するための手続きが非常に煩雑で、このままだと文化交流が広がらないと思います。でも、日本も中國もどんどん制限が解除されていますから、今年の下半期から本當(dāng)の意味の対面交流が始まるのではないかと期待しています」と語る中野氏だが、その視線からは文化交流再開への期待が伺える。
容易に想像できるが、この半世紀(jì)で250回以上中國を訪れ、古希を過ぎた中野氏にとって、この3年半は実に長かった。
中日文化交流に攜わってきた50年
中野氏は日中文化交流協(xié)會に勤める前、大學(xué)時(shí)代には美術(shù)教育を?qū)煿イ筏胜楗瑗氓炔郡怂鶎伽贰⒆錁I(yè)後はヨットスクールの講師やヨットの開発をしていた。その時(shí)、井上靖の小説『天平の甍』を読んで、日本に渡った鑑真和上と中國に派遣された遣唐使の物語に興味を持つようになったという。「そこで、仲間を集めて計(jì)畫を作って、ヨットで遣唐使の航跡をたどる冒険プランを立てました」と中野氏は振り返る。
1971年、神奈川県の江の島沖でヨットを走らせる中野氏(上)
當(dāng)時(shí)、中日國交正常化が実現(xiàn)したばかりで、直行便すらない時(shí)代だった。計(jì)畫実行の可能性について日中文化交流協(xié)會を訪ねて相談したところ、両國関係が正常化したとはいえ、ヨットでの往來はまだ無理との答えが返ってきた。この大膽な計(jì)畫は斷念せざるを得なかったが、中國に対する熱意は消えることはなかった。その後、中野氏は再び協(xié)會の事務(wù)局を訪れ、協(xié)會で仕事をしたいと申し入れた。
「その頃は協(xié)會が一番忙しい時(shí)で、1971年のピンポン外交、72年の上海バレエ団の訪日など、協(xié)會は裏方として大きな役割を果たしました。私みたいな中國語もできない、中國に住んだこともない人間は普通なら採用されませんが、人手が足りなかった上に、若くて車の運(yùn)転ができるし、情熱もあるということで、協(xié)會に入れてもらえました」
1971年に名古屋で開かれた第31回世界卓球選手権大會で、日本選手の歓迎を受ける中國選手
こうして、當(dāng)時(shí)25歳の中野氏は中日國交正常化翌年の73年に日中文化交流協(xié)會に入り、ヨット関係者から中日文化交流の「渡し守」へと転身した。
わずか1カ月後の73年4月、初の大相撲中國公演のため、中野氏は117名の力士に同行して初めての中國訪問を果たした。「大相撲というのはお相撲さんが主體ですが、勝負(fù)の判定をする行司や、力士を呼び上げ、土俵整備を行う呼出など、陰で支える裏方さんがたくさんいます。みんなが中國の方々から『先生』と呼ばれ、各地で大歓迎を受けて、感激して大変喜んでいました。中國の人々と仲良くして、それを見るのが一番嬉しくて、やっぱりやりがいのある仕事だなと思いましたよ」と中野氏は語る。
1973年4月、北京空港に降り立った力士たちと中野氏(右上、右から2人目)
その後、國交正常化後の交流ルートの拡充と中國の改革開放の実施により、文學(xué)や美術(shù)、書道、音楽などを含む各分野で、ますます多くの日本の文化人が中國に目を向けるようになり、協(xié)會の協(xié)力を得て中國で交流訪問とイベント開催を行った。事務(wù)局長、常務(wù)理事を歴任し、現(xiàn)在は専務(wù)理事となった中野氏もよく日本の文化人たちを連れて中國各地を訪問し、両國文化交流の最前線で活躍してきた。
若者にバトンタッチ
2019年末、新型コロナの影響で、中日両國間のオフライン形式の交流が途絶えた。
「ほぼすべてのイベントが中止となり、対面交流ができないということは、協(xié)會にとって大きな打撃でした」と中野氏は顔を曇らせた。中國の各友好団體、協(xié)會とオンライン形式で書道展や座談會を行ったものの、やはり雰囲気が違うという。「書道展を開催しましたが、墨の匂いがしないし、筆の音もしない。出來上がった作品は雑誌とネットに載せるだけで、やっぱり限界を感じました。人の気持ちは、なかなか伝わってこないですよ」
新型コロナの感染狀況が落ち著くにつれ、蘭花賞の最終審査に招待された中野氏は、ようやく再び中國の土を踏んだ。
蘭花賞の最終審査會で発言する中野氏(寫真?顧思騏)
「新型コロナとウクライナ情勢の影響で、世界は暗闇に包まれています。しかしこの數(shù)日、明るい光が見えてきました。習(xí)近平國家主席がウクライナのゼレンスキー大統(tǒng)領(lǐng)と電話で會談し、平和の回復(fù)のために努力していくと話しました。そういう時(shí)期に蘭花賞の審査が行われるのは、本當(dāng)に不思議な巡り合わせです。蘭花賞は文化の賞だけでなく、平和の賞、文明の賞でもあり、審査員として參加できることを嬉しく思います」と中野氏は笑顔で話す。
中日文化交流に攜わった半世紀(jì)、中日関係の山あり谷ありを経験した中野氏。文化交流はヨットと同じように「風(fēng)を待つ」必要がある一方、じっくり考えて遠(yuǎn)くを見てゆったりと構(gòu)える必要もあるとだんだん分かってきた。中野氏と協(xié)會は青少年交流の推進(jìn)を、將來を見據(jù)えた上で非常に重要なものと考えている。
2019年、甘粛省の敦煌莫高窟を訪問した日本人大學(xué)生訪中団。団長は東京蕓術(shù)大學(xué)名譽(yù)教授、日本畫家の宮廻正明氏(前列右から5人目)
中野氏から見ると、メディアなどさまざまな要因の影響で、多くの日本の若者の対中理解が不足している。「若者にバトンタッチ、自分の目で中國を見てもらい、両國の雰囲気をよくするのが協(xié)會の仕事です。コロナが始まる前には、有名な作家や映畫監(jiān)督などの文化人を団長とする100人規(guī)模の大學(xué)生訪中団を6回派遣しました。大學(xué)生たちが文化人の話を聞きながら中國各地を見學(xué)し、さらに現(xiàn)地の若者と交流し、大きな成果を得ました。今年も2組の訪中団を派遣する予定です」と中野氏は紹介し、さらに「中國の友達(dá)を作り、中國文化を好きになり、中國のいろいろなものに興味を持ってもらう……中國のことを良く認(rèn)識し、將來の両國関係につなげていって欲しいです」と期待を寄せた。
「人民中國インターネット版」