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szmolu.com |14. 09. 2024 |
40年前の経験を未來(lái)へ
笹川日中友好基金室長(zhǎng) 于展(談)
1984年の夏、私は北京外國(guó)語(yǔ)大學(xué)(當(dāng)時(shí)は北京外國(guó)語(yǔ)學(xué)院)を卒業(yè)し、母校で働くことになった。同年秋に3000人の日本青年が訪中し、その期間中に母校でスピーチコンテストが行われた。參加者は日本語(yǔ)を?qū)Wぶ中國(guó)の大學(xué)生と、中國(guó)語(yǔ)を?qū)Wぶ訪中団のメンバーだった。そのとき、私はコンテストの通訳を務(wù)めた。
中國(guó)側(cè)の參加者は主に北京の各大學(xué)の3、4年生で、一方、日本側(cè)の參加者は多様だった。大學(xué)で中國(guó)語(yǔ)を?qū)Wぶ學(xué)生もいれば、中國(guó)人のペンフレンドと手紙でやり取りしながら中國(guó)語(yǔ)を?qū)Wんでいた主婦や漫畫(huà)家もいたが、體の不自由な日本人の女の子が特に印象深かった。
コンテスト自體は規(guī)模がそれほど大きくなかったが、雙方の審査員のレベルは非常に高かった。北京語(yǔ)言學(xué)院(現(xiàn)在は北京語(yǔ)言大學(xué))の日本語(yǔ)教師育成のために設(shè)立された「大平學(xué)校」(大平正芳元首相が設(shè)立に攜わった日本語(yǔ)研修センター、後の北京日本學(xué)研究センター)のベテラン勢(shì)が全員參加し、中には日本人専門家グループ長(zhǎng)の佐治圭三先生もいた。國(guó)家外専(外國(guó)人専門家)局から各大學(xué)の日本語(yǔ)學(xué)科に派遣された日本人教師もいた。また、中國(guó)側(cè)の審査員は全て中日友好界の大先輩たちだった。
現(xiàn)在とは違い、當(dāng)時(shí)の中國(guó)人大學(xué)生が日本人と觸れ合う機(jī)會(huì)は主に以下の三つだった。一つ目は、大學(xué)での日本人教師との交流。二つ目は各大學(xué)にいる少數(shù)の留學(xué)生で、その大半は北京に派遣されて中國(guó)語(yǔ)を研修する日本企業(yè)の社員であり、當(dāng)時(shí)北京ではよく日本人留學(xué)生と中國(guó)人大學(xué)生が共にプレーする野球の試合が行われていた。三つ目は、北京外國(guó)語(yǔ)大學(xué)などの外國(guó)語(yǔ)學(xué)校で夏休みに開(kāi)催される日本人向けの中國(guó)語(yǔ)短期研修班でだ。北京外國(guó)語(yǔ)大學(xué)は日本語(yǔ)専攻の學(xué)生と研修班參加者たちとの交流會(huì)などを開(kāi)催していた。
私たち日本語(yǔ)専攻の學(xué)生ですらこのレベルだったのだから、他の一般人はなおさらだ。そのため、40年前の「日本青年3000人訪中」活動(dòng)は、より広範(fàn)囲に積極的な効果を生んだと私は考えている。特に、メディア報(bào)道を通じて、より多くの中國(guó)の人々が日本の人々が一體どのような人たちなのかを知ることができ、中日民間友好の雰囲気を盛り上げることにつなげた。
現(xiàn)在中日関係は冷え込んでいるが、40年前の同イベントの成功経験は今でも非常に參考になる。両國(guó)の友好団體や交流機(jī)関はそれぞれの特徴を生かし、両國(guó)の民間交流や青年交流のためにより多くのプラットフォームをつくり上げ、両國(guó)間の友好交流の潮流をより力強(qiáng)くしていってほしい。
近年、私が所屬する笹川日中友好基金は、オンラインとオフラインの形で中日交流という大枠の中からいくつかの具體的な分野に焦點(diǎn)を當(dāng)て、対話と交流促進(jìn)に向けて多くの取り組みをしてきた。例えば、國(guó)際関係研究分野の中日青年學(xué)者交流や、中日両國(guó)の伝統(tǒng)工蕓職人の交流、自衛(wèi)隊(duì)と中國(guó)人民解放軍の幹部らによる「日中佐官級(jí)交流事業(yè)」などが挙げられる。中日友好交流界の一員として、今後も自分の経験を生かし、両國(guó)の交流に力を盡くしていきたい。 (王朝陽(yáng)=聞き手 李家祺=構(gòu)成)
「人民中國(guó)」 2024年9月14日