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szmolu.com |14. 09. 2024 |
歌でたどる友好交流
歌手 芹洋子(談)
私は1981年に初めて中國を訪問した。當時中國には日本語講座の番組があり、その番組のテーマ曲に「四季の歌」が使われていたようだ。北京の學生さんなどは愛唱歌として歌ってくださり、その流れで學生さんの中から私を呼ぼうという聲が出てきたと聞いている。さらに中國國際放送でどんどんリクエストをしてくださり、招聘の機運が高まってコンサートの実現となった。それは中國との縁の始まりであり、そのおかげで、私は日中國交正常化以降初めて北京で公演を行った日本人歌手となった。
84年初頭、日中協會の白西紳一郎さんを通して3000人訪中の話をいただいた。3000人という數字を最初に聞いたときは本當に驚いた。どのように集まるのだろうと思っていたが、徐々に形になってきた。そして5月頃に私の訪中が決定し、蕓術関係擔當の文化代表として招かれることとなった。
入念な準備を経て、私は9月に北京に入り、大勢の人が詰め掛けた首都體育館で行われた歓迎大會に參加した。日中それぞれの出し物が代わる代わる繰り広げられ、和気あいあいとした雰囲気の中で進行した。私の出番は最後で、「四季の歌」などを歌わせていただいた。
団員の皆さんは地方にも行ったが、私は北京だけ。歌だけに集中し、歓迎大會だけのために全力投球した訪中だった。しかしそのぶん北京をじっくりと紹介していただけて、中國の歴史の深さ、素晴らしさ、大きさを存分に感じることができた。
84年訪中の思い出は他にもたくさんある。當時中華全國青年連合會の主席を務めていた胡錦濤さんが私の訪中スケジュールなど、いろいろを決めてくださった。胡さんは背が高く堂々としていて、活動的なイメージが強かった。同行した訪中団最年少の3歳の娘のことは、「小さな友好大使」と呼んでくださった。娘のためにわざわざホテルまで中國服を屆けてくださったこともあった。そのときはちょうど娘をお風呂に入れていたので大変お待たせしてしまったが、嫌な顔一つせず、ロビーで1時間も待ってくださっていたのには本當に驚いた。
振り返ってみると、3000人交流は、最初小さくたたまれていたものがぱっと広がる、あたかも扇のようなものだったと私は感じた。私はその後も中國との交流を重ね、日本と中國が協力することで、日本だけでも中國だけでもなし得ない、異なる成果を上げることができると強く感じたが、3000人交流はそのきっかけになったと言える。
初めての訪中から43年、19回の訪中では、若い人たちとの交流がひときわ多かった。その経験から知ったのは、「人間的な交流」の大事さだ。コロナで途絶えてしまった訪中コンサート、次回が実現すれば記念すべき20回目となる。そのときに中國の皆さんと再會するのが、心から楽しみだ。 (李一凡=聞き手?構成)
「人民中國」 2024年9月14日