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中日両國(guó)>
szmolu.com |14. 09. 2024

友情の種が芽吹いたあの頃

タグ: 友情
人民中國(guó)  |  2024-09-14

日本青年団協(xié)議會(huì)第24代會(huì)長(zhǎng) 小野寺喜一郎(談) 

3000人交流が実施された1984年は、日中平和友好條約締結(jié)から6年目で、條約の精神を形あるものにするため、中國(guó)は國(guó)を挙げて取り組み、強(qiáng)固な日中関係を築いていきたいという並々ならぬ決意を感じた。 

日本青年団協(xié)議會(huì)(以下、日青協(xié))の鈴木重郎副會(huì)長(zhǎng)は54年、日本青年の代表として初めて北京の地を踏んだ。そして56年には、中華全國(guó)民主青年連合総會(huì)の廖承志主席の招待を受けて、日青協(xié)は代表団を派遣して訪中し、青年交流の道を切り開(kāi)いた。つまり日中青年交流は、70年ほど前のまだ國(guó)交のなく往來(lái)斷絶と言う重い扉が閉ざされている時(shí)代に先輩たちが切り開(kāi)いてきたものだ。その後一連の流れを私は青年団運(yùn)動(dòng)の中で引き継ぎ、中國(guó)青年を受け入れたり中國(guó)派遣を行ったりしてきた。 

83年、私は日青協(xié)の會(huì)長(zhǎng)に就任した。當(dāng)時(shí)、胡耀邦総書(shū)記が國(guó)賓として日本に招かれることとなり、中曽根康弘首相に対して、21世紀(jì)の中日関係を確固たるものにするために、日本の若者と話がしたいという希望を出した。それで當(dāng)時(shí)の官房長(zhǎng)官で日青協(xié)の先輩だった藤波孝生さんから連絡(luò)があり、首相が會(huì)いたいと言っているということで首相官邸に行った。そこで胡総書(shū)記の意向を聞き、その対応を頼むと首相から言われた。そういうわけで、早速各青少年団體に聲を掛け、NHKホールで3000人を集めて「胡耀邦総書(shū)記歓迎青年の集い」を開(kāi)催した。 

胡総書(shū)記が演説で、日本の流行歌の『若者たち』から「君の行く道は果てしなく遠(yuǎn)い」「空にまた 陽(yáng)がのぼるとき 若者はまた 歩きはじめる」という歌詞を引用した。そして演説の最後に、來(lái)年は中國(guó)の一番いい季節(jié)である秋に、日本の青年3000人を1週間中國(guó)に招待すると発言し、會(huì)場(chǎng)を騒然とさせた。日本の青年3000人を1週間も中國(guó)に招待するなどというスケールの大きな話は前代未聞だったからだ。胡総書(shū)記は廖承志氏らと青年運(yùn)動(dòng)をやってこられた方だから、若者に國(guó)の將來(lái)への期待をかけ、中日友好の未來(lái)を築いてくれという若者たちに向けたメッセージなのだなと私は受け止めた。 

胡総書(shū)記の言葉を受け、日中青年友好交流組織委員會(huì)が84年4月に結(jié)成されて日青協(xié)の中に事務(wù)所が置かれ、私は日本側(cè)総代表に就任した。受け入れの中國(guó)側(cè)責(zé)任者が、當(dāng)時(shí)中華全國(guó)青年連合會(huì)主席の胡錦濤氏であった。胡氏は溫和でかつシャープな人柄で、一連の交流で友情を深めた。2007年、國(guó)家主席の胡氏の招きで息子を連れて訪中し、翌08年には厳しいスケジュールではあったが胡氏が日本にやってきて、私の家族と共に友情を溫めた。 

組織委員會(huì)が発足したものの、事務(wù)局スタッフ、財(cái)政、準(zhǔn)備期間の全てが極めて厳しかったので不眠不休で対応し、1984年9月に47都道府県の青年団體をカバーする歴史的な3000人交流がスタートした。結(jié)団壯行會(huì)で中曽根首相の「中國(guó)の青年から握手をされたら、その倍の力で握り、お土産をいただいたら、その倍のものにして返してほしい」という激勵(lì)を受け、北京へと旅立った。 

北京空港に降り立つと、子どもも一緒に太鼓をにぎやかに鳴らすという度肝を抜かれるような熱烈歓迎がわれわれを待っていた。そして9月30日には約2萬(wàn)人が首都體育館に集結(jié)し、歓迎大會(huì)が行われた。あいさつに登壇した胡総書(shū)記は、「この交流は人類進(jìn)歩の偉大な事業(yè)」と強(qiáng)調(diào)し、その演説の迫力に私はすっかり圧倒された。日本側(cè)を代表して「日中青年不戦の誓いと日中青年交流センター建設(shè)促進(jìn)、そして日中青年交流の歴史的成果をかてにその先頭に立つ」と、2萬(wàn)人を前に緊張のもと締めくくったときの萬(wàn)雷の拍手は、今でも忘れられない。 

人民大會(huì)堂での歓迎宴會(huì)に始まり、中華人民共和國(guó)成立35周年の祝賀行事など、中國(guó)各地で熱烈な歓迎を受けた。いよいよ帰國(guó)となり、3000人の日本の若者たちが中國(guó)の若者たちと抱き合い別れを惜しむ光景は、本當(dāng)に印象深かった。交歓と交流で生まれた感謝と感激の涙は、日中両國(guó)の大地に染み渡り、枯れることのない友好の泉となり、両國(guó)の若者の青春と人生を決定付けた大切な出來(lái)事となった。 

3000人は帰國(guó)後に日本全國(guó)に散らばって種をまき、中國(guó)という輝く國(guó)のことが日本の津々浦々に知れ渡った。これを境に日中青年交流はあらゆる分野で広がりを見(jiàn)せ、日中交流はまたたく間に時(shí)代の潮流となった。 

85年は國(guó)連が定めた國(guó)際青年の年だったため、日本の青年団體は帰國(guó)後すぐに返禮として中國(guó)青年訪日団の受け入れ準(zhǔn)備に奔走した。そして85年3月には胡錦濤氏が中國(guó)の若者100人を率いて來(lái)日し、同年10月には劉延?xùn)|氏が団長(zhǎng)の「中國(guó)青年訪日友好の船」代表団約500人が來(lái)日、17日をかけて博多、酒田、仙臺(tái)、東京、名古屋、大阪の寄港先で交流を行った。3000人交流をきっかけに急速に広がった「友好の種まき」の成果は時(shí)間をかけて両國(guó)に根付き、今でも成長(zhǎng)を続けていると私は感じている。 

時(shí)は過(guò)ぎ、私は地元の山形県遊佐町で町議を経て町長(zhǎng)となり、訪中団を組織しては地元の人々に実物の中國(guó)を見(jiàn)てもらった。中國(guó)人留學(xué)生の長(zhǎng)期ホームステイ受け入れなど、家族総出の交流は今も続いている。 

青年交流で何が大切かというと、相手と心を通じ合わせることで生まれる友情だ。3000人の友情が一斉に芽吹いたあの時(shí)に思いをはせつつ、今を生きる若者が「外向きで前向き」という日中青年交流の伝統(tǒng)を受け継いでくれることを願(yuàn)ってやまない。 (李一凡=聞き手?構(gòu)成) 

「人民中國(guó)インターネット版」2024年9月14日