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“蒼潤高逸、秀出東南”と稱えられる廬山は、昔から多くの文學者や蕓術家に愛され、隠者や高僧のよりどころであり、政治家や名士の活動の舞臺でもあった。こうした雰囲気が廬山に濃厚な文化的色彩をもたらし、奧深い文化の存する場所にした。
廬山の山水文化は中國の山水文化が素晴らしい形で反映したものである。中國山水文化の歴史を縮小したものといえる。廬山の自然は詩的化された自然であり、また“人”化された自然でもある。東晉時代以來、詩人たちが廬山について詠んだ詩詞歌賦は4,000を超える。東晉の詩人?謝霊運の『登廬山絶頂望諸嶠』、南朝の詩人?鮑照の『望石門』などは、中國における最も初期の山水詩の一つであり、廬山は中國山水詩の発祥地の一つとなった。詩人?陶淵明が生涯にわたり廬山をテーマに作った田園詩の作風は、その後の中國の詩壇に影響を與えた。唐代の詩人?李白は5回にわたり廬山を遊覧し、『廬山遙寄慮侍御虛舟』等の14首の詩をつくった。彼の作品『望廬山瀑布』は廬山の瀑布同様、千古にわたり伝わっている。この作品は國內だけではなく、海外の華人社會にも知れわたっており、中國古代詩中の最高作品とされている。宋代の詩人蘇軾の『題西林壁』は広く人々に知られ、與えた影響は計り知れず、「廬山の真面目を識らざれば、只だ身の此の山中に在るに縁る」という名句は非常に弁証法的哲理に満ちている。
「チャイナネット」2007年12月20日