韓國(guó)人51人が2日、重慶市江北區(qū)上橫街を訪れ、山に登り、皇陵を參拝した。彼らはこの10年あまりずっと、舊暦2月6日に遠(yuǎn)路はるばる重慶を訪れ、この中國(guó)南西部都市の片隅をついのすみかとした自分達(dá)の先祖?明玉珍のお墓を參拝している。この日、中國(guó)人53人もお墓參りをした。これらの中國(guó)人は、四川、重慶、貴州からやって來(lái)た、明玉珍の中國(guó)人子孫だ。中韓両國(guó)の子孫達(dá)は同日、それぞれの風(fēng)習(xí)にならって先祖を拝み、最高級(jí)の祭儀によってご先祖様に対する敬慕の気持ちを表した。両國(guó)の子孫らによると、今後は共同祭儀を行う可能性もあるという。
質(zhì)素な皇陵內(nèi)の小さな壁面の真ん中に、明玉珍の肖像畫(huà)が掛かっており、その真下に祭祀用の菓子や果物が所狹しと並べられている。韓國(guó)人子孫は、韓國(guó)の伝統(tǒng)衣裝を身につけ、祭壇の前で敬虔に額をつけお辭儀をした。韓國(guó)明氏宗親(親族)會(huì)のスタッフによると、彼らの多くは明玉珍皇帝の25代後の子孫で、重慶で自分の先祖を突き止めたという。その後2001年以降、親族達(dá)は舊暦2月6日をお墓參りの日と決め、毎年重慶を訪れている。
明氏の家系図によると、明氏の子孫は韓國(guó)に約4萬(wàn)人、朝鮮に約2萬(wàn)人おり、その他の國(guó)々にも少數(shù)が住んでいるという。韓國(guó)に住む子孫は明氏親族會(huì)を設(shè)立し、現(xiàn)地にも祭壇を建造し、年に2回祭儀を行っている。
明玉珍は、元代末期の農(nóng)民蜂起軍の有名な指導(dǎo)者で、湖広行省隨州(現(xiàn)在の湖北省隨州市)出身。もとの名を旻玉珍といい、のちに明教(マニ教)の信者となり「明」と改姓した。明玉珍は1361年7月、重慶で「隴蜀王」を名乗った。1363年、重慶で「皇帝」に即位、國(guó)號(hào)を「大夏」、年號(hào)を「天統(tǒng)」とし、重慶を首都に定め大夏政権を樹(shù)立した。1366年病死、子の明昇が後を継いだ。 1371年、大夏國(guó)は朱元璋によって滅ぼされた。明玉珍の遺體は江北城に埋葬され、墓地は「睿陵」と名付けられた。
「人民網(wǎng)日本語(yǔ)版」2009年3月3日