遙かな外國から1980年に祖國大陸へ戻ってから現在まで、臺灣桃園生まれの林明月さんは上海で22年間も働いてきました。浦東港務大廈事務所勤務の林明月さんは“帰國して祖國の建設に參加し、幸運にもこの偉大なる時代をこの眼で見ることが出來ました”と感慨深げに語った。林明月さんは中華文化を愛している。1971年、彼女は夫と共に日本に留學し、1973年には再び二人で米國へ行った。1979年元旦、全國人民代表大會常務委員會により?臺灣同胞へ告げる書?が発表された。これは母なる祖國からの呼びかけであった。1980年8月、彼女は夫の範増勝に隨い、まだ6歳に満たない息子を連れて上海港務局へ赴き、新しい生活、新しい仕事を始めた。 前世紀80年代初頭、世界の先進的港灣ではすでにコンピューター技術が一般的に応用されていた時期、この方面では上海港はまだ全くの空白狀態だった。林明月さんは得意のこの分野で一人のプロ技術者となり、この空白狀態を変えることを決意した。1982年、港務局責任者の支持を得て、彼女は技術者陣を従えコンピューター応用、情報システム創設テスト単位として高陽港務公司を選択し、港灣區で厳しい仕事を開始した。港灣貨物取扱量統計など3項目の応用システムを開発し、上海港ならびに國內各港灣のコンピューター技術応用の先駆となった。2年後、“上海高陽生産経営管理情報システム”が誕生した。 このシステムは、22部門で使用され、200余のモニター検索、200余の報告表、印刷機能を提供し、情報カバー率は75%に達した。該システムの使用により、不正確な倉庫データ管理、遅滯貨物、所有者不明貨物管理などの難題が解決され、大量の人的労働力が節減されると共に倉庫利用率もアップした。該項目は國際港灣と同レベルに達したと評価され、交通部重點科學技術プロモーション項目に指定された。1985年、林明月さんは中國共産黨に入黨を許された。 この數年間、上海港を現代化國際的大港灣とし國際コンテナセンターとするため、林明月さんは上海港情報ネットワーク建設に再び全力を傾けた。現在、全港灣23社のローカルネットと局レベル?インターネットのリンクが実現して、上海港現代化管理水準は大きく向上し上海港の市場競爭力は増強されている。統計によると、上海港コンテナー取り扱い量は1995年の152萬標準コンテナから2001年には640萬標準コンテナと6年間で4倍増しており、取り扱い量は億トンの大臺を超えて一躍世界第三大港灣となっている。 現在の林明月さんは、全國政治協商會議委員會委員、全國婦人聯合會実行委員、全國臺灣聯合會副會長、上海市臺灣聯合會會長であり、今回の第16回黨大會の代表に選出された。特に強調すべきことは、大陸臺灣両岸の交流、コミュニケーションを深めるために力を注いでいることである。例えば、職業のない臺灣同胞青年のための就業連絡、生活困難な臺灣同胞家庭への生活補助、最近大陸で創業、學習する臺灣同胞への配慮など、休祭日を利用して病気に苦しみ、生活貧困な臺灣同胞のために走り回る…林明月さんはその誠実と親切心で臺灣同胞の信用と敬意を勝ち得ている。 「チャイナネット」2002/11/13
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