1954年10月に、周恩來総理が日本國會議員訪中団及び學術文化代表団と會見した際、?中日関係の鍵は平和共存である。われわれはすぐ近くで、共存共栄の平和の種を見つけることができる。1945年8月の日本の敗戦後、數多くの日本の兵士たちは帰國せず、在中居留日本人とともに、中國人民解放軍に參加したり、醫師、看護士、エンジニア、教師などとして中國の革命及び新たなる建設に力を捧げ、中國の友人となった。私たちは彼らを信頼し、感謝している。これは信頼に値する真の友情であり、中日友好の礎でもある?、と語った。
森川和代さんは、周総理が語った?中日友好の種?の一人である。50數年來、彼女は中日友好の道ために黙々奉仕し、豊かな成果をあげている。
1944年10月、森川さんは両親とともに中國の長春に來て、看護の知識を學んだ。1947年5月、森川さんは東北民主連軍に參加し、ジャムス(佳木斯)軍區病院で看護婦を勤めた際、看護部隊での苦難に満ちた生活で精神が鍛えられ、だんだん人生の意義が分かってきた。
中國の著名な蕓術家趙丹、秦怡と記念寫真を寫した森川さん(中)
1949年10月、中華人民共和國が成立した。森川さんは部隊と別れを告げ、東北映畫製作工場のアニメーショングループに派遣された。1950年1月に、森川さんは上海映畫製作工場に転職し、?色を塗る組?の主力となり、?謝謝小花貓?(みけねこちゃん、ありがとう)、?キノコを摘む?などのアニメーションの製作に參與した。1953年5月、森川さんは9年ぶりに帰國し、日本の參議院議員、京都東土願寺の大谷瑩潤法師の提案によって組織された中國殉難者慰霊執行委員會で働き始め、日中友好の道を歩み続けた。
中日友好の勢いが盛り上がった5、60年代に、森川さんは経済、貿易、文化、スポーツなど各種の訪日代表団の接待係りや通訳を擔當し、數多くの重要な人物を接待した。しかし、新中國の映畫の発展に身を投じた経験から、森川さんはやはり中日映畫交流に大部分の精力を傾けている。
1960年、北京中南海で周恩來総理と會見した森川さん
また、森川さんは5回にわたって周恩來総理と會見し、周総理の人格的魅力に感服させられた。これは森川さんの人生における輝かしい歴史となり、彼女自身の誇りともなった。
?チャイナネット?2007年9月25日