幾山河越えさりゆかば
さみしさのはてなきくにぞ
今も旅ゆく一生歩き通す道
険しくとも醫の道一すじ
民を救いて
人類と共に生き長らへる迎えにくる まで
これは中國人民解放軍に參加した日本人の醫師、松原勳さんのノットで書かれた詩歌であり、松原勳さんの一生を寫実したものでもある。
松原勳さん
松原勳さんは1930年に日本東京大學醫學部を卒業し、博士號を取得し、外科醫になった。1936年4月、松原勳さんは?満鉄?株式會社に入社し、1938年4月に、ハルビン満鉄病院の外科部長を務めた。日本敗戦後、満鉄病院は解散し、松原勳さんは東北民主連軍衛生部第37後方病院に殘り、外科主任を務めた。
中國醫科大學付屬病院外科の同僚との記念寫真(前の左から4人目は松原勳さん)
その後の中國人民解放戦爭の期間には、松原勳さんは東北民主連軍と共に、ハルビン、北安、克山、ジャムスなどの地域を転戦して、病院で負傷者を診察?治療するほか、延安からの指導員や病院の職員に、醫學の知識を教えた。松原勳さんのすばらしい事績は、人々に讃えられた。
1958年4月、松原勳さんは帰國した。1979年5月、日中友好を促進したいという願いを持って、?中國帰國者友好會?の3回目の訪中団に參加し、20數年ぶりに中國に戻り、かつての教え子に會い、北京、ハルビン、長春、瀋陽などを訪問した。帰國してから、松原勳さんは『中國帰國者友好會會報』に文章を発表し、中國での見聞を紹介し、?日中両國國民の友好関係が絶えず発展していく?ことを望んだ。
1994年8月22日、病気により逝去。享年91歳。
?チャイナネット?2007年9月25日