孫文と梅屋莊吉夫妻
「知られざる辛亥革命の志士」と言われる梅屋莊吉は、1868年長崎に生まれた。莊吉が単獨で上海行きの船に乗り込んだのは、14歳のときだった。歐米列強が幅を利かせ、中國人民が抑圧されていた當時の上海は、彼に深い印象を殘した。その後香港に渡った莊吉は、寫真館を開いた。1895年、寫真館の常連だったイギリス人、ジェームズ?カントリー醫師が莊吉に孫文を引き合わせた。カントリー醫師は、孫文に醫學を教える教師だった。
孫文が29歳のとき、梅屋莊吉は27歳だった。二人は意気投合した。莊吉は孫文の理想を実現するために、自分の財産をつぎ込む決心をした。そして「君は兵を挙げよ、我は財をもって支援す」と誓った。
梅屋莊吉の支援の下、孫文は「広州蜂起」を起こした。この武裝蜂起が失敗した孫文は、莊吉の勧めで初めて日本を訪れ、それ以降、日本を革命運動の重要な拠點と位置付けた。一方莊吉は、香港の寫真館を閉め、新しい事業、映畫産業を興し、大成功を収めることになった。
梅屋莊吉はその後も約束を守り、孫文の革命のために大量の武器を調達し、経済的援助を続けた。見返りも求めず中國革命を支援し続けたのである。奧ゆかしい莊吉はその金額を記録に殘すことはなく、具體額は不明である。しかしある研究者は、孫文への支援総額を現在の金額で1兆円以上と見積もる。
梅屋莊吉とその妻徳子は、孫文と宋慶齢の媒酌人でもある。梅屋夫妻の仲人の下、孫文と宋慶齢は1915年、東京で結婚している。
孫文の死去後、梅屋莊吉は巨費を投じて広州、南京、マカオなどに孫文の銅像を4體贈った。それは今でも貴重な文化財となっている。