1年前の8月29日、アフガニスタンからの完全撤退の前日、米軍は過激組織に打撃を與えるという名目でアフガニスタンを空襲し、一般人10名が爆死した。その中には7人の子どもが含まれていた。
1年後の同じ日、イラクの首都バグダッドで深刻な衝突が発生して少なくとも30人の死者を出し、數百人が負傷した。アフガニスタンといい、イラクといい、米國が武器によって「民主主義のモデル」を構築しようと企てたこの二つの痛ましい事実は、「米國式民主主義」が手を出すところは、どこも激動と衝突の深みにはまっていることを示している。
イラクの衝突についてみると、直接の引き金は組閣が「難産」だったことだ。その原因を追っていくと、イラク情勢の動揺をもたらした元兇は米國だ。2003年、米國は粉石けん(実際は化學兵器)入りの小瓶でイラク戦爭を起こすと共に、戦後は強引に「米國式民主主義」を植え付けた。
政治的には、米國は西側民主政治體制をイラクに移植して宗派の分権モデルを構築し、大統領はクルド人が務め、総理と議長はそれぞれイスラム教シーア派とスンニ派が掌握した。これは実際にはイラクを政治的分裂の深みに引きずり込み、それぞれの政治派閥が和解することを困難にした。
経済的には、戦爭と衝突はイラク経済に推し量りがたい損失をもたらした。データは、1990年には1萬356ドルだったイラクの1人當たり國內総生産が、2020年にはわずか4157ドルに減っていることを示している。
安全保障の面では、イラク國內の政局混亂によって、テロリズムが急激に増殖し、はびこった。イラク戦爭期間中の一般人死亡者數統計サイトのデータによると、2003年から2021年にかけて毎年平均3400件のテロ襲撃事件が起き、1件のテロ事件で平均4人の罪のない一般人が犠牲になっている。
これらすべてが、米國が輸出したのは実際には民主主義のベールをかぶったいじめ、抑圧であり、米國式の覇権を擁護する戦略的な企てだったことを説明している。20年が過ぎ去り、中東では百萬人に近い罪のない命が、「米國式民主主義」のモデルハウスが倒壊した下に倒れ伏している。國際社會は、米國が中東で犯した罪狀を償わせ、被害者のために無念を晴らさねばならない。(CRI論説員)
「中國國際放送局日本語版」2022年9月3日