1978年10月28日、小雨の降るこの日、政界と経済界の二人の巨頭の手がしっかりと握られた。一人は改革開放の総設(shè)計(jì)師である鄧小平、もう一人は経営の神様と呼ばれる松下幸之助である。
最も早く中國に進(jìn)出した外資系企業(yè)として、松下電気産業(yè)は中國の改革開放の歴史をその目で見てきた。30年前の二人の年配者の「君子の約束」は、いまでもそう語られている。
鄧小平「教えを請(qǐng)う姿勢で參りました」
松下「何であれ、全力で支援するつもりです」
1978年10月、當(dāng)時(shí)、國務(wù)院副総理の鄧小平は日本を訪問した。この訪問の重要な目的は、日本企業(yè)の近代的な生産の様子を視察することだった。
鄧小平にとって、近代化とはまず電子工業(yè)化である。だが、當(dāng)時(shí)の中國は、自動(dòng)車生産の電子化は言うまでもなく、家電生産もまだ手作業(yè)の段階にあった。テレビや冷蔵庫、洗濯機(jī)は三種の神器と呼ばれ、庶民は購入するのに順番を待たなければならなかった。
鄧小平のこの訪問に、日本の一人の伝奇的な人物がずっと強(qiáng)い関心を寄せていた。日本産業(yè)界で「経営の神様」と呼ばれる松下幸之助である。
松下幸之助に、鄧小平も強(qiáng)い興味を抱いていた。視察に訪れた3番目の工場は、松下電器産業(yè)の大阪?茨木にあるテレビ工場だった。
1978年10月28日、83歳の高齢で、すでに「第二線に退いていた」松下幸之助は小雨の中、工場の正門で鄧小平を出迎えた。
松下電器産業(yè)の當(dāng)時(shí)の映像資料を見ると、鄧小平は階段を上る際、後方にいる松下幸之助に手を差し出した。そのあともかなりの間、二人の手は握られたままだった。そして、鄧小平が別の手を握ると、松下幸之助は鄧小平にお辭儀をして謝意を表した。
その後、鄧小平はカラーテレビや高速ファクシミリ、漢字プログラムシステム、ビデオカメラなどの製品を視察。ゆっくりと回ったのは、製品の生産過程を詳細(xì)に見るためだった。
従業(yè)員が當(dāng)時(shí)のハイテク製品?レンジを紹介。わずか數(shù)秒で1個(gè)のシュウマイが湯気をたてながら出されたのを見て、鄧小平はすぐに手にとり口に放りこんだ。
鄧小平のこの動(dòng)作に、松下幸之助は思った。この中國の指導(dǎo)者は実に人間らしい、表面をつくろうことをせず、試食までしてくれた――。
松下電器産業(yè)との會(huì)談で、鄧小平は當(dāng)時(shí)の中國の立ち遅れた現(xiàn)実を忌憚なく語った?!杆饯郡沥悉郅螭趣Δ私踏à蛘?qǐng)う姿勢をもってあなた方とお會(huì)いすることにしたのです」
さらに鄧小平は「中國はこれまで対外債務(wù)はなく、國內(nèi)債務(wù)もなく、非常に誇りに感じています。今後、私たちは近代化しなければならず、自力更生のもとに、外國の技術(shù)や資金を?qū)毪工毪长趣摔筏皮い蓼埂k娮庸I(yè)がなければ、近代化は実現(xiàn)できないので、あなた方の電子工業(yè)を私たちの方に持っていきたいと思っています」と語った。
その率直さに、松下幸之助はいっそうの親しみを感じた。だからか、鄧小平が「松下老翁、中國の近代化建設(shè)にお手伝いいただけますか」と問うと、松下幸之助は即座に「何であれ、全力で支援するつもりです」と答えた。
これを聞いた鄧小平は満面笑みを浮かべ、結(jié)構(gòu)なことだと何度もうなずきながら、松下幸之助に中國訪問を招請(qǐng)し、松下幸之助は喜んで受け入れた。
喜びここに至り、鄧小平は日本の友人の要望にこたえ、茨木工場の記念冊(cè)子に題字を寄せた。「中日友好前程似錦(中日友好の前途は洋々たり)」
(文中敬稱略)
「チャイナネット」2008年11月3日
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