文=奧井禮喜
日刊紙を読まないと精神衛生に大変よろしい。とはいえ、腹が立つ材料がないのは考えものでもある。そもそも人間社會は不満があるのが尋常であり、尋常から遁走していることにもなるのであって。
野田首相がAPECで、TPP協議に參加すると発言するまでの新聞論調は、TPPに參加しなければ、あたかも一巻の終わりみたいな論調が圧していたが、參加表明すると、今度はおおいに指導性発揮せよとのご託宣である。
能天気というか、國論がまだまだまとまったとは言えない事情において、いかに言論の自由とはいえ、自己中心的論調だという懸念を払拭しがたい。以前食糧安全保障論を語っていた新聞が、今回まったく觸れないのも奇妙だ。
「聞疑始」(荘子)という言葉がある。これ、疑始(ぎし)に聞けり。本當の道を知ろうと思えば、疑いをもつことから始めなければならないという。聲の大きい奴に従うのはよほど要注意である。
新聞は途上國に追い上げられて苛々しているようだが、少し回顧すれば、かつてわが國が先進國を追いかけて、今日の地位を占めたのであり、いずこの國も豊かさを求めて粒粒辛苦するのだから、それを忘れてはいけない。
インドのタタ自動車が20萬円のナノを発売した。當初いまにもわが國の自動車業界が転覆するような論調が登場した。ナノの部品の2/3は日本製だという。秋葉原で部品を買い集めてパソコンを組み立てるみたいなものだ。こういう思考法には學ぶべきことがあるが、世界の自動車がすべて20萬円になるわけではない。妙なナショナリズムにはおおいに警戒せにゃならない。
日本でしか売れない商品(たとえば攜帯電話)を作る。ガラパゴス化だと厳しく批判した。しかし、國內で日本製の攜帯が席巻しているのは、日本製品の優秀性ゆえであって、もし他國のと同じものなら、それこそ他國商品に席巻されているかもしれない。市場は內外とも同じである。
日本でしか売れないのはなるほどさびしいであろう。では、わが國の新聞は世界市場において高級紙としての評価をかたじけなく頂戴しているのであろうか。新聞の奇妙な國士ぶりは社會をミスリードする危懼がある。