日本の華字紙「新華僑報」ウエブ版では、「日本の隣人たち」という文章が掲載されている。以下は要約。
東京に住もうと思った時、私は「お隣さん対応策」を色々考えた。たとえば卑屈にならず、偉そうにせず、禮儀正しく、つかず離れず、穏やかに…。毎日、何件もの物件を回り、ある部屋を見つけ、不動産屋と契約することができた。引越しした翌日の朝、私はきれいに包裝したタオルを持って、お隣さんたちへあいさつに回った。ベルを鳴らすと、ドアがゆっくりと開き、チェーンの向こうに顔が半分見えた。贈り物を受け取ってほしい旨を伝えると、その半分の顔がすぐに引っ込み、ドアが「バン!」と閉められた。これが最初の訪問である。
その後も30分以上をかけて、10人以上の半分の顔を見ながら、同じ數だけのタオルを送り、訪問が終わった。隣人との最初の付き合いが、これほどまでに早く終わるとは思わなかった。ちょっと意外だった。中國の伝統的な習慣から言えば、引っ越しは一大事ではないし、大げさに歓送迎されるものではない。しかし、少なくとも「劉おばさん」や「張おじいさん」といったお隣さんたちが窓から顔を出して來たり、近所の人たちが三々五々挨拶にやってきたりする。心優しい人なら、積極的に引越しを手伝ってくれたりさえするものだ。あるいは家に入ってきて、身の上話に親身に耳を傾けたりする人もいるだろう。引越し作業が終わるころには、隣人のことが大體分かるようになっている。
禮儀正しい日本の隣人たちとは対照的なこの中國的習慣のほうが、人情味があっていいと思う。「中國人の間には個人のプライバシーがない」と外國人は言うが、私はそう思わない。まじめに生きている人間が、どうして秘密めいた暮らしをする必要があるのか。禮儀正しくても冷淡ならば、とても寒々しいではないか。とはいえ、「郷に入っては郷に従え」である。私は日本のライフスタイルを踏まえて東京で生活するほかなかった。隣人が訪れることもなく、私も規範にしたがって、他人の邪魔にならないようにした。何事もなく時は過ぎたが、それはとても寂しい日々であり、寂しさを人に伝えることもできなかった。東京という大都市に住む人はみな「冷淡病」に罹っているようだった。