文=在米中國人學者?呉澧
1972年、中、米、日がまだ外交関係を構築していなかった頃、當時の政権を取った田中角栄首相は、米首相ニクソンが日本に斷りもなく直接中國と接觸したことを受け、日本でも「獨立」的行動を起こし、先に中國と外交関係を結んでしまおうと決意した。しかし、そこで彼の前に立ちはだかった大きな壁は、意外にも蔣介石の人的魅力だったという。
蔣介石の歴史を裏切ることはできない
蔣介石
當時、自民黨にいた田中は、まだ50代で力を持ち、何かを成し遂げようと考えていた。しかし、自民黨建黨メンバーの岸信介らもまだ健在で、國民黨上層部との強いつながりを持ち、自民黨內での影響力も大きかった。彼ら曰く、當時100萬人の兵士と200萬人の移住者たちが無事に帰國できたことで、蔣介石には大きな借りがあるという。さらに、天皇を守れたのも、蔣介石氏の米ルーズベルト大統領への説得が大きな鍵を握っていたと確信していた。もちろん、最終的な決定はルーズベルトが下したのだが、1943年のカイロ會議において、蔣介石はルーズベルトに対し次のように提案している。「戦後の日本の體制は、日本國民自身に決めさせるべきであり、連合國が強制するべきではない。」自民黨建黨メンバー達はこれに感激し、「蔣介石氏が生きている限り、恩知らずなことはできない」としていた。
両派は、最終的に妥協案で一致。田中は北京へ向かい國交を結んでもよいが、中華民國の合法性を否定する如何なる発言もしなかった。これには、中國政府に対して謝罪しない事も含まれていた。なぜならば、中國政府が認めないサンフランシスコ講和條約などの條約での交戦國及び締結國は蔣介石政府であったからだ。自民黨建黨メンバー達にとっては、「少なくとも蔣介石氏による歴史を裏切る行為はしていない」という形に収まった。
黃仁宇氏の『関係千萬重』の一節を思い出す。終戦時、中國駐在の日本軍司令官岡村寧次が「淪陥區(被占領區)」の秩序を守り、敗戦兵による混亂を起こすことなく、東南精華地區を比較的完全な狀態で中國に返還した。そんな彼を「戦犯」として処理するのは少し人情味に欠けるのではないか。あの頃は中國人も日本人も人情における「義理」を尊重し、絶対的な善悪にはこだわらないこともあった。