特集:中日文化?スポーツ交流年
大學(xué)の外國(guó)文化祭の開(kāi)幕式で、日本人の留學(xué)生が歌をうたうことになった。後ろに座っていた理學(xué)部の女子學(xué)生に、「おい、君、ちょっと聞くが、こういう場(chǎng)合はどういうふうに応援するの?」と聞かれた。僕が先生であることを知らず、女子學(xué)生が平気な顔をして聞く。そばに座っていた先生が思わず失笑し、「この人は日本語(yǔ)科の先生ですよ」と女子學(xué)生に言ったが、「冗談はよして、せいぜい三年生じゃない」と答えるのだった。僕の顔がそんなに幼く見(jiàn)えるのかなと反省しながら、それ以上弁解はしなかった。
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日本人なら、たとえ相手が同じく學(xué)生であっても、知らない人にこういうふうには聲をかけはしないだろうし、かけるとしても、「すみません、ちょっとお聞きしたいんですが……」と慎んで聞くにちがいない。また、先生を?qū)W生と間違えたと指摘されたときも、日本人ならきっと「大変失禮いたしました」と言うだろう。心の中では、「マジ?この人、全然先生らしくないじゃん……」と思うかもしれないけど。
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ちょっと先の質(zhì)問(wèn)に話題が逸れたようだが、まんざら無(wú)関係ではない。実は僕がその女子學(xué)生の質(zhì)問(wèn)への答えに窮したのである。どういうふうに応援すればいいのだろう。「がんばれ」というのは運(yùn)動(dòng)會(huì)の時(shí)にしか使わない言葉であるし、「がんばって」というのも大聲で叫ぶにはふさわしくないし、いったい何だろうと、いろいろ考えてみたが、適當(dāng)な言葉を思い出せなかった。「そんな言葉はないかもしれない」と女子學(xué)生に言ったら、すぐに反論された。「中國(guó)語(yǔ)で「好!」と叫ぶように、歐米人は「ワンダフル」と叫ぶんじゃない?ないわけはないでしょ」と。そうかもしれないな。しかし、さすがに思いつかなかった。自分が學(xué)生だと間違えられて馬鹿にされることをまぬかれたことは幸いだとひそかに思いながら、その訳を考えてみた。たしかに、そういう言葉がないわけはない。しかし、日本人なら、こういう場(chǎng)合に靜かに聴くのが普通だから、日本語(yǔ)で叫ぶのにふさわしい言葉を思いつくことができなかったのかもしれない。
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日本人は內(nèi)向気味の民族である。心に思うことをあまりズバリと口に出さない。つまり、口でいうことと心に思うことは必ず一致している訳ではない。留學(xué)生の友達(dá)Mさんがいたが、彼女が中國(guó)にきたばかり頃、中國(guó)人の好きなおやつの「ひまわりのタネ」をあげたことがある。その翌日に、「おいしかった」とたずねると、「おいしかったわあ。ありがとう」という返事がはねかえってきた。ところが、それから何日間あとのことだが、みんなと一緒に食事をしているときに、そのレストランでおやつとして「ひまわりのタネ」を出してくるのだった。みんなが食べ始めると、そのMさんが驚いて、しかも僕を驚かすようなことを口にした。「ひまわりのタネは皮を吐き捨てて食べるの」と。ひまわりのタネは皮ごと食べるものだと思っていくつか食べたようで、殘った分はまだ置いたままだという。「それでも、ひまわりのタネがおいしかった」と心の中で思ったが、さすがに口に出すことははばかられた。その當(dāng)時(shí)、Mさんも「おいしかったわ。ありがとう」という時(shí)、心の中ではきっと「この人、どうしてこんなにまずいものをくれたのだろう」と思ったに違いない。
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中國(guó)人、特に中國(guó)の「北方の人」は外向的で、ときどき口喧嘩をする。今年の國(guó)慶節(jié)直前のことだった。地下鉄の北京駅で大騒ぎになっていた。喧嘩だった。いつも無(wú)口の日本人の先生が、「中國(guó)人は喧嘩が好きなよう」と言った。「いいえ。好きではないと思う。怒ったときに、自分の感情を外へ出すことになるの。この點(diǎn)が日本人と違うかもしれないな」と僕が言った。同じく日本語(yǔ)科のW先生が頷いて、「いつも自分の感情を心に閉じこめていては、怒りがたまって、大変なことになりますよ。怒るとき、適當(dāng)に自分の怒りを外へ爆発させるほうがいいんじゃない?」とつけ足した。例の日本人の先生が頭をかしげて、茫然とした表情で僕たちの顔を見(jiàn)続けていた。內(nèi)向気味の日本人の中でも內(nèi)向的な彼は、僕たちの「へ理屈」に納得できなかったのだろう。
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実を言うと、僕もどちらかと言うと內(nèi)向的な性格の持ち主である。そのためか、しばしば中國(guó)の「南方の人」あるいは日本人と間違えて、誰(shuí)も僕が中國(guó)の「北方の人」であることを認(rèn)めてくれないようである。しかし、このような僕でも、日本人の內(nèi)向的なのに耐えられなくなるときもある。「失禮」にならない程度に、あるいは「亂暴」にならない程度に、もうちょっと外向的になったほうがいいのではないだろうか。これは內(nèi)向的な中國(guó)人としての僕の內(nèi)向的な日本人へのアドバイスであり、これを持って拙文を結(jié)びたいと思う。
(天津?林檎さんの投稿より)
「チャイナネット」2007年11月27日