文=奧井禮喜
大事件?事故が発生した場(chǎng)合、被災(zāi)者は當(dāng)然ながら大混亂に陥るが、予想以上に早く冷靜さを回復(fù)し、狀況に対処する。1995年兵庫(kù)地震でも、先年3.11でも被災(zāi)者の冷靜沈著さが內(nèi)外に高く評(píng)価された。
一方、政府?政治家をはじめ危機(jī)に対する行政の対策が円滑ならず、行政が一體化して事に當(dāng)たられず、さまざまな批判を被った。米國(guó)でエリート?パニックという言葉がある。
チームを仕切る連中がもたつくのだから、必然、チーム一體としての力が発揮できない。そもそも平常時(shí)においてすら、あらゆる組織においてリーダーシップやチームワーク、コミュニケーションが容易に構(gòu)築されていない。そこへ日常行動(dòng)が破壊されるのだから混亂が拡大するわけだ。
いかに精緻?萬(wàn)全の対策マニュアルを作成していたとしても、紙切れと現(xiàn)実は大いに異なる。ましてマニュアルを作成した人と、運(yùn)用する人は異なるし、膨大な人數(shù)の運(yùn)用者がマニュアルに精通していることはまずない。
町を走る自転車(chē)をみればよろしい。歩道上の無(wú)謀運(yùn)転、車(chē)道の逆走、信號(hào)無(wú)視など、常識(shí)すらない。仮に(數(shù)が多過(guò)ぎるが)非常識(shí)を無(wú)視するとしても、マニュアルの存在と運(yùn)用がまったく別物だということがわかる。
被災(zāi)者の事情は、事件?事故が巨大であればあるほど、主観的にも客観的にも単純に絞り込まれる。いわく衣食、生命保持の欲求が強(qiáng)まる。自己努力の可能性が少なくなるから尚更である。
だから被災(zāi)地の方々が、自分と家族の切羽詰まった事情がありながら、救援活動(dòng)業(yè)務(wù)や、破壊された會(huì)社の再建に獻(xiàn)身された姿は今も胸が熱くなる。社會(huì)の絆の大切さに気付いたというのはこれである。