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鄧小平一家30年の起伏 四合院で靜かに生活(1)
発信時間: 2008-12-01 | チャイナネット

11月11日、中國政治協商會議副主席で、中國身體障害者連合會前主席の鄧樸方は同連合會の全國大會で報告を行った際、自らの父、中國共産黨第二世代指導グループの中核だった鄧小平との「対面」について語った。

鄧小平(1987年10月撮影)

「黨と國家はこれまでずっと身障者に関心を寄せ、身障者のための仕事を重視し、身障者事業を発展させてきた…。鄧小平同志は心の底から、中國は身障者に対する福祉を改善しなければならないと指摘した…」。車椅子に座る鄧樸方は報告のなかでこう語った。このとき、中國の改革開放はじき満30年を迎えようとしており、改革開放の「設計者」と広く認められた鄧小平が亡くなってすでに11年が過ぎていた。

河北省武安県にいる鄧小平と鄧樸方(左)(1945年撮影)

鄧樸方が車椅子に座って初めて父と対面したのは、38年前のことだ。「文化大革命」の間、鄧小平は「第2の走資派(資本主義の道を進む派)」と批判され、鄧家の子女も政治の嵐による慘禍の中心に巻き込まれた。なかでも鄧樸方の境遇はもっとも悲慘だった。1968年、紅衛兵の造反組に虐待された鄧樸方は階上から落下して負傷し、紅衛兵に妨害されてすぐに治療できなかったため、下半身不隨となった。

鄧樸方は回想する。何度も願い出てようやく出會えた父子は、対面しても、互いに気にかけることはあっても無言でいた。だが息子として、心のなかに「溢れるのは涙だったかもしれないし、溢れるのは血だったかもしれない」。下放(幹部を思想教育のため地方に送る政策)された地、江西省で、鄧小平は息子の體を洗ったり、體の位置を変えたり、一家全員が鄧樸方を持ち上げて浴室に連れて行き、沸騰する霧のなかで彼の胸をさすり、背中をもんだりするのを手伝った。

2000年、鄧小平の末娘の鄧榕が『わたしの父?鄧小平――「文革」の歳月』をしたためた。鄧榕は本書を出版した際、「文革」のときには非常に苦しい立場に置かれたが、家族のそれぞれの思いやりは少しも薄れることなく、「これは私たちにとって非常に大切、父にとってはずっと大切なことでした」と語っている。ある研究者は、家庭の真情が鄧小平にとって精神的支えの一つであり、鄧小平が外部の目に「永遠に打倒することのできない背の低い人間」と見られたのは、鄧家がこうした心の結びつきと兄妹愛のある家庭だったことと無縁ではない、と話している。

1978年末、第11期中國共産黨中央委員會第3回全體會議で改革開放に向けた大幕が開かれ、中國の近代化建設はここから始まった。政界で「3度の起伏」を體験した鄧小平は、中國共産黨第2世代の黨內で指導者となる。政治的地位が上がることで子女にもたらされるかもしれない影響に配慮し、「文革」の時にともに涙を流し、子女に対し非常に民主的に接してきた鄧小平は家族を集め、厳しい表情で「控え目に行動する」よう強く言った。

(文中敬稱略)

「チャイナネット」2008年12月1日

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