留學生たちが日本で新しい知識を受け入れたり、新しい思想を伝えあったりすることも、彼らの革命への方向転換における重要な要素となっていた。また、それは彼らに愛國と革命の一致を理論的に認識させ、反帝國と愛國、そして民主革命思想の宣伝活動に積極的に取り組むようになり、辛亥革命のための大きな世論を築いていった。
魯迅は當時の様子を次のように記憶している。中國人留學生は日本に著くとすぐに新しい知識を求めて、試験のための日本語學習の他は、「會館へ出向き、書店に走り、集會に參加し、講演を聴く」という生活だった。留學生たちは日本において西洋や日本の各資産階級政治、経済、社會學説や、自由、平等、博愛、天が與えた人権等の思想、更には社會主義、無政府主義などの新思想を含む様々な思想に広く接していたので、非常に柔軟な思想を自然に身につけ、いつもさまざまな形の集會を開き、各種団體を組織し、いろいろな刊行物を出版し、中國を救うための様々な手段や道について演説を行なったり文章を発表したりしていた。
留學生たちは、中國人に新しい思想や文化を伝えることを自身の神聖な責任であると考えていたため、日本で多くの定期刊行物や雑誌を作り、様々な書籍を翻訳出版していた。西洋と日本における資産階級の新思想新文化を自ら消化し、改造を加えて、広く留學生や中國國內の知識層に向けて情報発信していたのである。20世紀初頭に留學生たちが出した刊行物は実に70~80種類、翻訳編集した書籍は數百種にも及んだ。留學生たちはその數も多く精力的だったため、それらの書籍は種類も多く、內容も新しく、當時の人々への啓発や革命世論への影響はかなり大きいもので、中華民族の覚醒と民主革命を力強く後押しした。
留學生たちは西洋の民主革命思想を広めると同時に、西洋や日本の社會主義、更にマルクス主義思想の學説にも接し始めていた。初期の社會主義思想やマルクス主義思想は日本にいた留學生を通じて中國に伝わったものである。留學生たちは西洋資産階級の政治學説を吸収?消化し、中國の実情に合わせて各種資産階級民主革命の文章や著作を書いた。當時、革命思想の広まりに大きく貢獻したのが、留學生の鄒容が書いた『革命軍』だった。これは中國近代史上初の旗幟鮮明且つ系統的に革命と資産階級共和國を広めた著作だった。鄒容は『革命軍』の中で熱く叫んでいる。「巍巍たるもの、それは革命なり、皇皇たるもの、それは革命なり…革命なくしてわが國の獨立はなく、革命なくして世界の列強と肩を並べることはできず、革命なくして20世紀の新世界に中國はない!」と革命の必要性を訴えている。彼はまた、革命の原因、意義、目的、方法について語り、資産階級共和國の建設を鼓舞し、愛國と革命とを理論的に統一したのである。この文章により、彼は清政府に捕らえられ、獄中で病死した。しかし、彼の書いた『革命軍』がつけた革命の炎は清政府も消すことができなかった。『革命軍』は中國國內と日本で広く流行し、20回余りに渡って翻刻され、100萬冊以上印刷されたという統計もある。魯迅も「その影響力を語るなら、他のどんな言葉も「革命軍の一兵卒」である鄒容の『革命軍』の明白さには勝てないだろう」と述べている。
「中國網日本語版(チャイナネット)」2011年9月22日