20世紀初頭、中國では大量の學生が日本へ留學し、世界留學史上でも稀に見る日本留學大ブームとなった。調査と統計によれば、20世紀初頭、少なくとも約2~3萬人の中國人學生が日本へ留學したとされている。
これには、當時の清政府の留學促進政策及び日本明治政府の積極的な招致が大きく関係している。戊戌の政変、義和団の亂、八國聯軍の侵略等、國內外においてダブルパンチを受けていた清政府は、その政権維持のため、新政措置を取った。そのうちの一つが、日本の明治維新を手本にすることであり、積極的に學生たちの日本留學を推し進め、奨勵規程の公布まで行なった。特に、1905年の清政府による科挙制度の廃止も大きく影響し、多くの知識人が留學の道を選び、相次いで日本へと旅立った。
一方の日本政府もまた、積極的に中國からの留學生を受け入れた。日清戦爭で中國を打ち破った日本明治政府は、今度はロシアを極東制覇のライバルとし、敗戦國である清政府に対しては、硬軟織りまぜた形の丸めこみ政策を取っていた。日本政府は、中國人留學生の受け入れによって、中國政府を丸め込めるばかりか、外貨収入増加にも繋がり、更には中國國內に親日勢力を育てることができると考えていた。そのため、日本の各界は中國人留學生の招致を重視し、中國人留學生を専門に受け入れる學校まで開設した。また、中日両國は距離的にも近く、交通が便利で、費用も節約でき、文字や習慣も似ていることから、歐米留學と比べ有利な點が多かった。
しかし、千単位萬単位の學生たちを日本留學へ向かわせた最大の原動力は、やはり若者たちの、日本に學ぶことで深刻な民族危機にある母國を救おうという強烈な愛國精神だった。
日清戦爭での敗退と下関條約の締結について、中國人愛國者たちはそれをこの上ない恥辱と感じる一方で、日本の明治維新による富國強兵の成果を目の當たりにしていた。そこで、中國の維新派は日本の維新に學ぶことを國難回避の策としたのである。そのため、日本へ留學し、直接その改革や富國強兵の経験を學ぶとともに、日本というフィルターを通した西洋文化を吸収することが、多くの愛國青年たちの憧れの道となった。特に19世紀末、帝國主義の列強において中國分割の動きが盛んになった頃には、國の存亡問題が目前に迫り、愛國青年たちの留學による母國救出熱は更に高まっていった。
「中國網日本語版(チャイナネット)」2011年9月22日