両國(guó)人民の友情の発展に、生涯を捧げた廖承志氏のことを、中日両國(guó)の人々は親しみを込めて「廖公」と呼ぶ。
1908年、日本の東京で廖承志氏は生まれ、1925年に留學(xué)のために再び日本を訪(fǎng)れた。1949年、廖氏は中國(guó)共産黨中央対外連絡(luò)部部長(zhǎng)に就任し、中日関係の職務(wù)を長(zhǎng)期にわたり擔(dān)當(dāng)するようになる。
1953年1月、中日両國(guó)は日本人居留民の帰國(guó)について取り決めを結(jié)んだ。その內(nèi)容は、日本は日本人居留民の帰國(guó)のために客船を用意する一方、責(zé)任を持って帰國(guó)を希望する在日中國(guó)人を中國(guó)に送り返すというものである。日本人居留民が中國(guó)を離れるとき、在日中國(guó)人が祖國(guó)に到著したとき、廖承志氏は常に彼らを見(jiàn)送り、そして出迎えた。
1954年10月、李徳全氏とともに廖承志氏は中國(guó)紅十字會(huì)代表団を率いて訪(fǎng)日した。これは新中國(guó)の建國(guó)後に、最初に派遣された訪(fǎng)日代表団であり、中日民間交流の扉を開(kāi)く訪(fǎng)問(wèn)であった。
1962年11月9日、廖承志氏と高碕達(dá)之助氏が『中日長(zhǎng)期総合貿(mào)易覚書(shū)(LT貿(mào)易覚書(shū))』に調(diào)印、1964年4月20日には中日両國(guó)の貿(mào)易事務(wù)所の設(shè)置と常駐記者の交換に関する覚書(shū)に調(diào)印がなされ、中日関係は新しい発展段階に入った。
1972年9月25日、田中角栄日本國(guó)総理大臣が中國(guó)を訪(fǎng)問(wèn)した際、廖承志氏は病気であったにもかかわらず、その會(huì)談の全過(guò)程に參加した。9月29日、『中日共同聲明』が調(diào)印され、中日両國(guó)の國(guó)交正常化が実現(xiàn)した。その裏には廖公の無(wú)私の貢獻(xiàn)があった。
1973年4月、中日友好協(xié)會(huì)代表団を率いて訪(fǎng)日した廖承志氏は、田中角栄総理大臣のために特別なお土産、大山桜の葉を用意していた。廖氏は田中総理大臣に、「この葉は田中総理大臣が中日國(guó)交正常化を祝うために中國(guó)人民に贈(zèng)った大山桜の木から摘み取ったものです。大山桜はすでに北京に根を下ろし、すくすくと育っています。田中総理大臣のご厚意に感謝し、記念にしていただくため持參しました」と言った。
中日平和友好條約締結(jié)のための會(huì)談に廖承志氏は全精力を傾け、1978年8月、中日両國(guó)はこの條約に調(diào)印した。同年10月、國(guó)務(wù)院副総理の鄧小平氏は日本を訪(fǎng)問(wèn)した際、中日平和友好條約批準(zhǔn)書(shū)の交換式典に廖承志を同席させた。
1979年5月9日、廖承志氏を団長(zhǎng)とする中日友好の船「明華號(hào)」が日本を訪(fǎng)れ、熱烈な歓迎を受けた。多くの人はこの船を「廖公の船」と呼び、一ヶ月近い訪(fǎng)問(wèn)期間に、「廖公の船」は中國(guó)の船としては史上前例のないと言ってよい日本列島一周の航海を行った。廖承志氏はそのときの感慨を、「乗船繞一周?友好達(dá)千秋(船に乗って一周し、友好は千年に)」と、題詞に詠んでいる。
廖承志氏と宮崎世民氏は親子二代で親交があった。1979年、日本を訪(fǎng)れた廖承志氏は宮崎氏の家で、「再遇蓬萊須満絲?年邇七十不為奇?心交両代情長(zhǎng)久?並肩百歳挙紅旗(日本で再會(huì)してみれば鬚まで白くなっている?もう70歳になるがさして珍しいことではない?親交も二代にわたり友情も長(zhǎng)久だ?両肩を並べ、生涯赤旗を押し立てる)」という題詩(shī)を詠んだ。宮崎氏は、「中日の友好関係の発展を語(yǔ)ろうとするなら、廖公を抜きにしては語(yǔ)ることはできません」と、廖氏を稱(chēng)えた。
1983年6月10日、廖承志氏は病気のため亡くなった。日本の鈴木善幸元総理大臣は、「廖承志氏と先に亡くなられた周恩來(lái)氏は、日本國(guó)民の心の中に永遠(yuǎn)に銘記されている。両氏は日中両國(guó)の友好事業(yè)に獻(xiàn)身し卓越した人物である」と、廖承志氏の死を悼んだ。
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