1971年の春、中國の「ピンポン外交」は、「小さな球で大きな球を動かす」ように、中米関係の扉を開いた。しかし、中米外交打開の舞臺となった第31回世界選手権に中國卓球選手団を參加させるために盡力した一人の日本人當時の日本卓球協會會長で、アジア卓球連盟會長でもあった後藤鉀二氏のことを知る人は、今日では少なくなってしまった。
後藤鉀二氏は愛知工業大學の學長で、豪快で一途な性格の持ち主であった。後藤氏は第31回世界選手権に中國が出場しなければ、31回大會は低いレベルの大會になり、開催意義がないと考えていた。この狀況を変えるには、臺灣が持っているアジア卓球連盟の參加資格を改めなければならなかった。
1971年1月25日、中國を31回世界選手権に招請するため、後藤氏は中國を訪れ、2月1日に中國卓球協會と第31回世界選手権への招請に関する會談覚書に調印した。後藤氏とその友人たちの共同の努力によって、1971年3月21日、中國は強大な陣容の卓球選手団を名古屋に送り、第31回世界選手権に出場させた。
世界選手権は始まったが、熾烈なゲームが繰り広げられている試合會場の外で、歴史的な変化が起ころうとしているとは、誰も想像すらしなかった。試合の合間にアメリカ選手団のスティンホーベン団長と中國選手団の宋中秘書長が數回にわたり非公式に接觸し、スティンホーベン団長は、アメリカ政府は邦人の訪中制限を緩和しており、自分たちに中國訪問を強く望んでいることをほのめかしたと、宋中秘書長に伝えた。中國選手団はこのことを直ちに本國に報告した。その後、選手団は、「アメリカ卓球選手団の訪中に同意する」という國際電話を受ける。中國選手団の宋中秘書長がこのことをアメリカ選手団に伝えると、彼らは驚き、そして喜んだ。だが、このことに最も驚き、喜んだのは、中國選手団を世界卓球選手権に出場させた後藤鉀二氏であった。
鋭い嗅覚を持った日本共同通信社の中島宏記者は、単獨でこの大ニュースをスクープし、共同通信は、中國がアメリカ卓球選手団の訪中に同意したというニュースを直ちに世界中に配信した。
1971年4月14日午後、周恩來総理が北京人民大會堂でアメリカ選手団と會見し、中米関係の扉は開かれた。當時は、中米関係があんなにも急速に発展するなど、誰も思っていなかった。ましてや、その後に中日関係がこれほど急速に発展するとは、誰も予測していなかったのである。
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