1964年4月、日本の政治家、松村謙三氏が訪中し、中國國務院の周恩來総理と會談、中日両國の連絡事務所の設置および新聞記者交換について合意に達した。同年9月29日、7人の中國人記者が東京に、9人の日本人記者が北京にそれぞれ派遣され、中日両國の常駐記者の交換が始まった。これは中日両國の報道史上初めてのことであり、後の中日國交正常化への道を開く重要な布石でもあった。
2004年9月29日、中國側は中日記者交換40周年を記念して座談會を開催し、『駐日記者40年』文集を出版して、その40年の歴史を振り返った。
北京に派遣された最初の日本人記者の一人、大越幸夫氏はその忘れ難い日々を回顧し、「特に深い感銘を覚えたのは、中日友好協會の當時の會長、廖承志氏が日本の北京駐在記者と毎月一度、日本料理店『和風』で開いていた『朝食會』です。廖承志氏は謙虛な人柄で、日本人記者の質問にも率直に答えてくれました。このような待遇は、他の國の記者には與えられておらず、9人の日本人記者は心から感動していました」と、感慨深く語った。
大越氏は更に、「中日両國記者交換のために井戸を掘ったのは、すでに故人となった中國の周恩來総理、廖承志氏、日本の松村謙三氏、高碕達之助氏、古井喜実氏などの諸先輩です。これらの先輩たちに再び敬意と感謝の意を表わし、今後も、両國の先輩が苦心して切り開いた日中平和友好関係を大切にし、更に発展させるよう努力したい」と、語っている。
両國の記者は、それぞれ仕事の上で苦労したが、いつも現地の人々の勵ましと善意が彼らの支えとなった。最初に日本に派遣された中國人記者たちは東京に赴任して間もない頃、思いがけないプレゼントを受け取った。それは、日本の記者を通して東京に住む少女が贈ってくれたお菓子と勵ましの手紙であった。この少女は、國交がない狀態で交換派遣されているため、中國人記者が慣れない日本で仕事の面でも、生活の面でも、大変苦労をしているという新聞記事を読み、勵ましのプレゼントを思いついたという。
ジャーナリストは歴史の証人であり、両國各界の人びとと幅広く接觸し、両國の間の交流、相互理解、友好関係を促進する掛け橋を築く役割を果たすものである。
記者交換の実現からの40年間に、日本から中國に派遣された記者は延べ400人を超え、中國から日本へ派遣された記者は延べ120人を超えている。
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