また、私が今年の春節(jié)、山西省の農(nóng)村を訪れた(何と私は「日本鬼子以來(lái)の日本人」とのこと)時(shí)のこと、村の書記さんをはじめ村民の皆さんは、逆に私に大変気を使ってくれて、當(dāng)時(shí)の日本軍の話については「非常に控えめに」に話してくれ、最後に「これらは歴史の事です。私たちはあなたを山西人の友人として心から歓迎します」という言葉まで添えてくれました。このことは、日本人として不名譽(yù)なことでしょうか?とんでもない。大変有り難い光栄なことと、心から感謝しています。
もちろん、私も日本人ですから、このような歴史的事実に、衝撃や罪悪感や恥辱感等々を全く感じないとは言いません。しかし、私は私です。私の義務(wù)と責(zé)任は、このような歴史の真実を正しく認(rèn)識(shí)し、二度と過ちを繰り返さない決意をし、現(xiàn)在及び將來(lái)において、日中両國(guó)の友情を繋げていくことであり、目を逸らしたり、沈黙したり、獨(dú)りよがりな弁護(hù)や弁明をすることではないはずです。過去の日本人がどんな過ちを犯そうと、私は怖くありません。過ちは正せばいいことです。謝罪は、勇気や知恵、謙虛と寛容の表現(xiàn)であり、決して日本人の名譽(yù)を損なうことではないはずです。(中略)
このような私から見ますと、右翼は言うまでもなく、普通の日本人の感覚も少々過敏では?と思います。例えば、日本では毎日殘酷な殺人事件が起きています。その犯人のほとんどは當(dāng)然ながら日本人ですが、彼らに対する善良な日本人の怒りと憎悪は中々強(qiáng)烈です。「あの時(shí)はどうしようもなかった」とか「それほど殘酷でなかった」とか「そういう狀況では誰(shuí)でもやることだ」「そんな事実はなかった。これは捏造だ」等々とは、決して言わないですね。何故なら、これは客観的な事実、しかも不正義な事実に対する純粋な義憤ですから。つまり、日本人というのは、日本社會(huì)における不正義には正常に反応できるのに、一端外國(guó)が関わると、特にそれが中國(guó)になると、ある種の尋常でない感情が先に立ち、當(dāng)り前の判斷ができなくなるようです。(中略)
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